REPORTS
- レクチャー
松岡慧祐「地図/マップは地域の多層性を表現しているか」
2020年10月4日(日) 10:00–12:00
奈良県立大学 CHISOU lab.
Editor: 西尾咲子(プログラムマネージャー)
REPORTS
2020年10月4日(日) 10:00–12:00
奈良県立大学 CHISOU lab.
Editor: 西尾咲子(プログラムマネージャー)
身近な存在から社会を読む学問「社会学」の研究者である松岡慧祐さんをお迎えし、世界や社会を描きだすメディアとしての地図/マップに着目し、日常生活の中で手にする様々な地図/マップを取り上げながら、地域の多層性について読み解きました。
CONTENTS
社会学は簡単に言うと、個人と社会のつながりについて考える学問です。私はまさに個人と社会をつなぐものとして地図があるのではないかと考え、地図を研究対象に選びました。地図を地域メディアとして捉えたり、地図をつくる実践の意義について考えたりしています。まずは地図の意味や表現の可能性について、いろいろな観点から考えていきたいと思います。
地図とはその名の通り「地」の「図」です。地表の状態を図によって表したものを「地図」と呼んでいます。地図を表現するにあたって一定のルールがいくつか存在しています。地図を描くためのルールは主に三つあり、一つは「平面化」というものです。地図は通常は平面上に描かれるという前提がありますよね。つまり地図は二次元の平面的な空間表現であって、空を飛ぶ鳥のように上空を見下ろすような視点で描かれる必要がある。最近はGoogleマップのように地図を3Dで立体的に表示できる機能があるので一概には言えませんが、原則的には地図は平面上に描かれるものです。二つ目が「縮尺化」です。現実の空間を小さい紙に縮めた比率を縮尺と呼びます。例えば二万五千分の一の縮尺の地図だったら、現実の空間を二万五千分の一に縮めた比率になります。三つ目が「記号化」です。地図というのは現実をありのままに描きだすのではなく、わかりやすい記号に置き換えて表現します。
この「記号化」が地図の表現を考える上で最も重要です。それは、地図と写真の最も大きな違いだからです。写真はありのままに写しとることを前提とした表現で、例えば航空写真や衛星写真があります。これらは地表の状態を平面上に表しているという意味では似ている表現ですが、「これは載せて、これは載せない」というように現実を意図的に取捨選択して表したものではありません。ですから、地図というのは、極めて恣意的な表現であるという点に特徴があります。恣意的な表現とは「作り手にとって都合の良い表現である」ということになります。地図は現実にあるものを写しとったコピーと思われがちですが、実際にはそうではなくて、地図の作り手が表現したいもの、見せたいものを見せるように情報を編集しています。それは、現実を再構成して伝え、共有するためのメディアであると言うこともできます。これが地図を社会学的に考える上で重要なポイントになります。
メディアというのは現実をありのままに伝えるとは限らず、何をどのように伝えるかは、そのメディアによってある程度は操作や編集がなされます。最近ではフェイクニュースという言葉もあるように、現実をねじ曲げたり、全く嘘のニュースを伝えたりということもできてしまう。やはり地図もメディアなので、ある現実を強調したり誇張したり、歪めたり、逆に隠したりといったことも簡単にできてしまいます。
地図の歴史を紐解いてみましょう。中世のヨーロッパでは世界の地理について科学的に正しく理解されておらず、キリスト教が強い力をもっていたので、キリスト教的な世界観を表現した「マッパ・ムンディ」という世界地図が普及していました。この地図では、世界とはヨーロッパとアジア、アフリカだけで構成されていて、アメリカ大陸はまだ発見されていない時代なので、地図上でもないものとされています。その一方で、聖書に出てくる「エデンの園」という理想郷が描かれていたり、あるいは聖書に出てくる想像上の動物が描かれていたり、現実とはかなり乖離した空想の世界地図でした。しかし当時の社会では、この世界観こそが正しい世界を表していると信じられていました。
現代では、地図は正確に科学的に描かれることもありますが、今でも「空想地図」というものが存在しています。今和泉隆行さんは、地図を分析して理論的に「中村市(なごむらし)」という架空の都市を描いています。実際にはこんな都市はどこにも存在しない。でも実際に地図を見るとどこかに本当にありそうな不思議な空想地図です。このように、地図は現実にはないものをあるように見せかける、魔力をもったメディアだとも言えます。このような魔力というのは、作り手が生みだすだけではなく、社会によって生みだされていると考えることもできます。
先ほどの中世ヨーロッパの「マッパ・ムンディ」のように、宗教的な世界観を真実として受け入れる社会もあれば、「中村市」の空想地図のように、正確無比に描かれた地図をリアルにみなす社会もあるわけですが、その背景には宗教に重きをおく社会、あるいは科学や経済に重きをおく社会、というように社会の文化や制度の違いがあります。つまり、その社会が何に価値をおくかによって地図の表現も変わり、その表現に対する認識も違ってきます。社会のあり方によって地図にリアリティを醸成する魔力みたいなものが生まれると考えられます。もっと簡単に言うと、時代や社会によって、地図の描き方や見方が変わってくるので、その意味で言うなら、地図の見方をつくっているのは社会であると。つまり地図を実際につくっているのは特定の人間や組織であるとしても、その人間や組織というのは必ず社会の影響を受けて地図をつくっているわけですから、そう考えると社会が地図をつくっていると言えるのです。
私たち個人は、世界や社会、都市の全体像を見渡すことができるでしょうか。全体像を見渡すためには、その全体像を囲む境界線というものを認識する必要があります。たとえ飛行機やタワーから見渡せたとしても、どこからどこまでが奈良県かという境界線はわからない。まず現実がそこにあって、その現実を再現しているのが地図であると考えがちですが、私たちの認識の上では現実よりも先に地図があり、地図に境界線が引かれることによって、その境界線は現実のものとして認識できるようになる。だから地図というのは必ず現実に先行していると考えられます。そう考えるなら、人は地図を見ることによって現実を理解し、地図は現実に先立って社会的な現実をつくりだすものであると言えます。つまり、私たちは地図を見ることによって初めて、世界や社会の全体像を見渡すことができる。逆に言うと、地図が世界や社会の見え方を規定していると言えます。
その一方で、CHISOUのキーワードである「多層性」という観点で言うと、地図は社会の多層性の表現であると言うこともできます。というのも、地図では、どの範囲を描くのかということに加えて、どんなテーマで描くかということも重要になってきます。最初にお話したように、地図は写真と違ってありのままに描くのではなく、必要なものを取捨選択することで成り立っている表現ですので、何を選択して何を捨てるか、何を載せて何を載せないかということを決めるために、特定のテーマが設定されることになります。例えば、単なる奈良県の地図ではなく、奈良県の観光スポットを紹介する観光マップが描かれる場合は、「観光」というテーマが選択され、関連するスポットが選択されて地図に掲載されることになります。その場合、単なる奈良県の地図という平板な地図だけでは見えないものが、観光という切り口から深掘りされることになるので、それによって地図はより多層的な表現になる。もちろん観光という要素だけではまだまだ浅いかもしれないので、もっと多様なテーマで地図を描いていくことによって、地図はより多層的に表現できるようになるのだと思います。「全域性」というのが横軸だとすると「多層性」というのは縦軸ですね。地図には空間の広がりを平面的に表現するという側面と、空間の「地層」を深く表現するという側面もあるということです。
現代社会における全域性の変容をおさえる上で重要な観点として、地図のデジタル化という現象がありますが、それ以前の紙の時代から、すでに変化の予兆がありました。それは、地図の断片化です。日本では急速な経済成長を遂げた一九七〇年代に、地図は人々が消費や観光を楽しむためのガイドマップとしての性格が強まった。例えば七〇年代には『an・an 』とか『non-no』のようなファッション雑誌が創刊され、その中に旅行記事が掲載されました。その影響でこの時代にはこれらの旅行記事を読んで旅に出る女性たちが急増したと言われています。地図の描き方も、イラストを使い距離とか縮尺はあまり正確ではなく、現実をかなり歪めてデフォルメしている。その代わり若い女性が関心をもちそうな娯楽スポットやグルメスポットを強調したりだとか、あるいはそこで遊ぶ人のキャラクターを描いてみたりだとか。イラストで表現することでなんだか可愛い、楽しいイメージが演出されています。
また、同時期には都市情報誌というのが次々と創刊され、東京や大阪のような大都市では、学生運動と結びついた「カウンターカルチャー」が台頭し、小さい劇場や映画館、ライブハウスが増加しました。マイナーな映画が上映されたり、学生の芝居やライブが開催されたりしました。そのようなイベントの情報を網羅していたのが、この都市情報誌でした。
そこには小劇場やミニシアターを案内するためのガイドマップが掲載されており、街ごとに詳しいマップが掲載されるようになりました。それから九〇年代になると、『東京ウォーカー』や『Hanako』といった新しい都市情報誌が創刊され、こういった情報誌は、七〇年代のようなカウンターカルチャーを紹介するというよりは、大衆をターゲットにした情報や流行、デート情報、グルメ情報が狭いエリアごとに断片的にマッピングされるようになります。
これは利便性を追求していった結果であって、合理性や効率性を追求する社会では自然な流れではありますが、やはり地図が断片化されていくと、全体がどうしても見えづらくなって、個人の地理的な認識まで断片化してしまう可能性があると思います。私たちが地図を通して見ているのは、全体ではなく、断片を見ていることが多い。そうすると特定のエリアのことはよくわかるけれど、そのエリアの外のことはよくわからなかったり、他のエリアとの位置関係がよくわからなかったりするということです。人間の空間認識というのは完全なものはあり得ないので、穴が多いのは当たり前ですが、地図が断片化していくことによって、人々の地理的な認識までも断片化したり、断片性が強まったりするというのは確かだと思います。
地図の断片化をさらに進行させたのが、地図のデジタル化という現象です。特にGoogleマップのようなスマホの地図アプリが普及したことによって、地図はそれさえあれば事足りるようになりました。このスマホの地図アプリで特に重要なのがGPS機能が付いているということです。GPS機能が自分の居場所を常に感知し、地図の中心に自動的に表示してくれている。そうすると自分で地図を見渡して自分の居場所を探す必要はなくなるわけですね。地図アプリというのは、エゴセントリック・マッピングと呼ばれる自己中心的な地図を自動的に表示する技術を導入することによって、自分のいるところだけを見るという、非常に断片的な地図の見方を誘発しました。
また、GoogleマップではGPSを利用したナビゲーション機能が導入されたことによって、カーナビと同じように目的地までのルートをリアルタイムにナビゲートしてくれます。地図を見渡すどころか、地図を読むことすら必要なくなり、ナビゲーションに従って道を曲がるだけで目的地に効率的に辿り着くことができるようになりました。これはまさに地図を自己中心的なものにして、究極的に断片化させる技術だと思います。
八〇年代頃から多様な地図やマップが行政や市民によってつくられることが増えてきました。例えばその先駆けはガリバーマップと呼ばれるもので、床に広げた巨大な白地図に、住民たちが生活者の視点で地域の魅力的な場所を自由に書き込んでいくことによって、地域への愛着やコミュニティ意識を醸成するという試みが実践されました。一九九一年には、水俣病問題を抱える熊本県水俣市で、水俣病問題に対処して地域のイメージを再生するための運動として、環境資源をイラストマップに落とし込む地域資源マップを、住民が主体となってつくりました。九〇年代以降は、身近な地域の中で、環境に良いものと悪いものを世界共通の絵文字とアイコンを使ってマッピングし、グリーンマップをつくるという国際的なプロジェクトが、日本でも展開されるようになりました。
さらに二〇〇〇年代になると、文部科学省の奨励によって、小中学校の校区内で事件や事故が起こりそうな場所をマッピングしていく、地域安全マップの取り組みが全国に広まっていきます。さらにまち歩きブームも起こり、まち歩きマップが各地でつくられるようになっていきました。まち歩きマップが従来の観光マップと違うのは、訪れる観光資源が何もない地域やまちに、固有の歴史や文化資源があるということを、地域住民が再発見するためにつくられていることで
す。また、防災マップが地域で盛んにつくられるようになりました。災害時の危険度を表す災害ハザードマップは、データに基づいて専門家がつくりますが、防災マップというのは、災害が起きた時の行動の指針として、どこに避難所があるのか、備品があるのか、どんなルートで避難すれば良いのかなどの防災に関する情報を地域住民がマッピングしたものです。このように色々なテーマのマップが地域でつくられるようになり、マップが地域メディアとしての役割を果たすようになってきたと言えます。
次に「地図」と「マップ」という概念について考えていきましょう。どちらも英語に訳すと「map」になりますが、私は地図を「Standard map」、マップを「Alternative map」と便宜的訳すことにしています。地図は、通常の地図に「都市地図」や「地形図」、「日本地図」のように表示されるような、情報に特殊性や偏りが少なく、一般的な要素を正確に表現する地図のことを表しています。特定のテーマが設定されているわけではないので、地図に掲載されるのは、道路や駅、あるいは郵便局、スーパー、コンビニのように、一般的に目印になるようなものを中心に掲載されています。Google マップも基本的には地図の方に含まれます。もう一つの特徴は、行政区画に基づいて描かれるということです。行政区画というのは、都道府県や市区町村など、いわゆる住所に掲載される地名です。正確な測量データによって、国土地理院のような公的な機関や地図制作を専門とする会社によってつくられます。縮尺や距離は正確ですが、正確であるがゆえにそれだけでは表現しきれないものがたくさんあります。
そこで必要になるのがマップと呼ばれるものです。これは、あるテーマや主題に沿って特殊な要素が選択され、それらが重点的に掲載されたものです。例えば観光マップ、グルメマップは、観光やグルメといった特定のテーマをもっているのでこちらに分類できます。特徴としては、地図上に表示される地域の範囲が必ずしも行政区画に縛られず、狭いエリアに限定してつくられることが多い。例えば、梅田駅周辺や難波駅周辺、近鉄奈良駅周辺のように、駅中心のエリア対象でつくられることもあり、こういった行政区画に縛られない、曖昧で緩やかなエリアのことを「文化単位」と呼びます。また、地図とマップのデザインを見ると、地図というのは正確につくられている反面、無機質でシンプルな表現になりやすい。それに対してマップは、作り手の意思によってデザインできるので、地図にいろいろな演出を施すことができるし、自由にテーマやエリアを設定できます。
地図は行政区画という公的な空間を表現し、専門機関によってつくられるものなので、それはある種の制約があると言えます。それは行政により定められた機関によって、正確な測量データに基づいてつくられるものなので、表現としての多様性みたいなものはあまりない。実際にそれをつくることができるのは公的な機関や専門機関だけなので、一般の市民は地図の制作に関与することはできません。一部の組織や人々に権力を握られた、ある意味で権力的な地図であると捉えることができます。それに対して、マップは誰もが制作に関与できますし、表現としての自由度も多様性も高いので、権力的な地図にはないような多様なイメージや地図の情報を生みだすことができるわけです。ですから、権力的な地図に対して、マップというのは自由で多様な表現を許容するという意味で、脱権力的な地図として捉えることができます。
一枚の地図だけでは、複雑化する社会や都市を表現するのが難しくなってきているなかで、このような多様なマップがつくられることによって、地図からこぼれ落ちたイメージや情報を補完して、地域の多層性を表現できる可能性があると言えます。別の言い方をすると、マップというのは地域の多層性を表現するレイヤー、つまり地層の一つである。そのため、マップをつくるということは、地域のどのレイヤーを切り取るかによって、地域のイメージを編集する、あるいはデザインする営みと言い表すこともできます。多様なテーマのマップをつくり、レイヤーとして積み重ねていくことによって、地域の多層性を表現することを、私はマップの「テーマ・レイヤリング」と呼んでいます。マップもそれ一枚だけでは一元的なものに過ぎないのですが、同じ地域でいろいろなテーマのマップを蓄積することによって、地域のイメージがより多層的なものになる可能性があると考えています。
「地図は恣意的な表現である」という言葉で、これまでなんとなく利用していた地図が、実は単一の視点から地理情報を見たものでしかないと気づかされました。複数の視点をもつことでしか見つけられないものもあるし、そこから地域の多層性を読み解くこともできる。そう考えると、今まで自分が関わってきた地域を別の視点で見るとどのように見えるのか、興味が湧きました。また、技術の進歩によって地図が断片化していくという話では、V R やA R などの技術が発展した先に地図はどのような姿になるのかと考えました。(古江晃也)
地図やマップの種類によって、出会うもの、気づくことが変わるのが面白い。反面、そこに書かれていない存在を無意識に切り捨ててしまう怖さもあり、持つのをためらうことがある。今回のレクチャーで、既存の観光マップには現在の情報はあるが、「別の時代の視点」がないと実感した。そこで、かつての光景を豊かに想像するためのマップをつくりたいと考えた。その時代ごとの風景や人々の暮らしぶりを伝えるコラムや図をふんだんに盛り込み、そこに現在の地図情報のレイヤーを重ねる。そうすることで、残された痕跡や地形をとっかかりに、場のスケール感を体感しつつ、当時の光景が実感をともなって目の前に立ち上がってくるのではないか。さらに別の時代の情報を重ねていってもよい。(井上唯)
地図に対する新たな視点を与えてくれる、とても興味深い内容だった。中でも「地図が社会をつくる」という考えは面白い。現代の多様性を認める社会が地図の断片化を加速させ、結果としてマップがより多様化していくというように、地図と社会は一方向ではなく相互関係にあると感じた(レクチャーでは地図とマップを違った概念で捉えている)。一方で、多様化による情報量の増加に対して、自分が本当に必要とするものに出会うことが困難になっているのではないかという危惧もある。ただ、多様性の社会だからこそ自分の欲しい情報だけでなく、一期一会の精神で情報との偶然の出会いを楽しむ需要的な態度も悪くないかもしれない。(早田典央)
〈地図〉は制約があって権力的、〈マップ〉は自由度が高く開かれていて脱権力的なメディアという説明を受けて、アートで言うところの「ホワイトキューブ」と「アートプロジェクト」の関係に近いものを感じた。
〈マップ〉で紹介された事例は、住民自治や環境問題、防災、地域資源などがテーマになっているものが多く、社会にとって誰も文句の言う余地がない「よいもの」を前提に制作されているように思えた。このこともまた、アートプロジェクトが「地域アート」として批判される場合と似ている。個人的には、身の危険や法を犯してでも社会に表現を投げかけるストリートアートが、時にアートプロジェクトのあり方を更新していくと考えている。では〈マップ〉において物議をかもす表現の事例はあるのだろうか。やばい〈マップ〉、気分を害する〈マップ〉、法を犯した〈マップ〉……、そうしたものに〈マップ〉をさらに面白いメディアとして更新していく可能性を感じた。
ワークにおける新しいマップのアイデアでは、プライベートとパブリックを交換するという自身の一貫した関心から、洗濯物のマップ(一般家庭の洗濯物が眺められる場所を示したもの)や、リビングのマップ(ストリートビューは家の外観しか映さないが、家をめくり返して各家庭のリビングの写真だけが地図上に配置されたもの)などが思い浮かんだ。
LECTURE OUTLINE
松岡慧祐
2020年10月4日(日) 10:00–12:00
身近な存在から社会を読む学問「社会学」の研究者である松岡慧祐さんをお迎えし、世界や社会を描き出すメディアとしての地図/マップをとりあげ、「グルメマップ」や「観光マップ」、「グーグルマップ」など生活の中で手にする地図に注目し、地域の多層性を読み解きます。
1982年岡山県生まれ、大阪府在住。現代の都市や地域社会を表象するメディアとしての地図のあり方について社会学的な見地から調査・研究している。主著に『グーグルマップの社会学──ググられる地図の正体』(光文社)などがある。