CHISOU

REPORTS

  • レクチャー

西山厚「〈奈良〉の信仰と美術──歴史はすべて現代史である」

2020年8月30日(日) 14:00–17:00

奈良県立大学 CHISOU lab.(オンライン配信あり)

Editor: 西尾咲子(プログラムマネージャー)

西山厚「〈奈良〉の信仰と美術──歴史はすべて現代史である」

読解編の第1回では、仏教美術史の第⼀⼈者で、奈良国⽴博物館名誉館員の⻄⼭厚さんをお迎えし、奈良時代の聖武天皇の悲しみから現代を生きる私たちの苦悩まで、さまざまな時代のさまざまな場所のさまざまな人々の思いや行いに目を向け、昔と今を分けずに歴史をすべて現代史と捉えて、奈良という場所で歴史からもっと多くのことを学びながら新しいことを展開していく姿勢について語っていただきました。

CONTENTS

普遍的なテーマで時空をつなぐ

明治時代を境に博物館と美術館を二分することに対する違和感

日本の社会には博物館と美術館があります。英語ではどちらもミュージアムですが、日本では違いがあります。多くの都道府県には県立博物館と県立美術館があります。基本的には明治時代を画期として、明治以前(古代・中世・近世)を扱うのが博物館。明治以後(近代と現代)を扱うのが美術館です。博物館では古美術を扱い、美術館では近代と現代の美術を扱っている。両者の間にはあまり交流もない。奈良には県立美術館はあるけど県立博物館がないので、県立美術館が古美術も扱っており例外ですが。どうして明治を境に美術の意味がすっかり変わってしまうのか。この分け方はおかしいと、私はずっと思ってきました。

縄文から現代まで時代を超えてつながる「信仰と美術」

20年前に私は奈良国立博物館に所属しながら「信仰と美術」(弘前市立博物館、秋田県立博物館に巡回、2000年)という展覧会を企画しました。「死と鎮魂」「自然への思い」「聖なるものへのあこがれ」の3つの章立てで構成しました。この3つのテーマは、明治で線を引かず、縄文から現代まで、時代を問わない普遍的なものです。

展示作品には、荒木高子さんの作品《岩の聖書》(1993年)や船越保武さんの作品《原の城》(1971年)など20世紀後半のものもあれば、奈良県桜井市の三輪山から出土した古墳時代の山ノ神遺跡の遺物(5−6世紀)や、奈良県の大峰山の修験の神様である平安時代の蔵王権現像(12世紀)、鎌倉時代の「阿弥陀如来迎図」(14世紀)と平山郁夫さんが描いた《阿弥陀如来迎図》(1979年)などがあり、一番新しい《岩の聖書》と一番古い三輪山の出土品が隣り合って展示されました。

仏像の背後にある深い悲しみと悲哀への共感

幼子を亡くした聖武天皇の悲しみからつくられた大仏

奈良で一番有名なのは、聖武天皇がつくった大仏ですね。聖武天皇は光明皇后と結婚して、初めに女の子が生まれてから9年経ち、後継となる待望の皇子が生まれた。聖武天皇はとても喜んで、生まれたばかりの赤ん坊を皇太子にしました。これは前代未聞のことです。聖武天皇がどれほど大きな期待を皇子に寄せていたかを物語っています。でも皇子は病気だった。あらゆる手立てを尽くしても良くならず、人間の力では救えないと考えた聖武天皇と光明皇后は、177体の観音像を造り、177巻の観音経を写経し、死にかけている我が子を救って欲しいと観音様に切に祈りました。満一歳を迎えることなく皇子は亡くなりました。

奈良県立大学から車で約5分の、ドリームランド遊園地跡地の近くにある横山道を登ったところに皇子のお墓がある。誰も行かない、すごく寂しいところです。聖武天皇は皇子の冥福を祈り、都の東の端にある山中に小さな寺をつくりました。金鐘寺という名前ですが、それがやがて大きくなって東大寺になり、やがて東大寺に大仏がつくられることになる。皇子の鎮魂のためにつくられた寺が東大寺です。

母と子を亡くした光明皇后の悲しみからつくられた八部衆の仏像

皇子が亡くなり4年が過ぎ、光明皇后の母の橘三千代が亡くなりました。光明皇后は母の冥福を祈って興福寺に西金堂を建てました。300年ほど前に消失し、今は西金堂趾という石碑が立っています。西金堂には光明皇后が母の冥福を祈ってつくらせた30体の仏像が祀られていましたが、そのうちの1体が、日本で一番人気の仏像である阿修羅です。

阿修羅は少年のようだとよく言われます。確かに十代後半のような顔です。阿修羅は八部衆の1体で、八部衆は少年の姿をしている像が多い。例えば五部浄は小学校5年生くらいに見える。亡くなった母の冥福を祈って西金堂がつくられたことは記録として存在しますが、さらに亡くなった子どもの冥福も祈って仏像がつくられたのではと私は考えています。

ほとんどの仏像の背景には、深い悲しみと切なる願いがある。仏像とはそういう存在です。死んだ子の年を数えるという言い方がありますが、「もしあの子が元気だったら…」と親はいつまでも思い続ける。きっと光明皇后もそう思っていた。もし皇子が生きていたら、西金堂をつくった時には6歳です。  八部衆には沙羯羅という像もあり、ちょうど6歳くらいに私には見える。沙羯羅は龍の王様なので、幼稚園児みたいな顔をしているのはおかしい。でも西金堂の沙羯羅だけは幼稚園児のような顔で立っている。光明皇后がそうつくらせたのです。あの子が生きていたら6歳、そして何年か経つと五部浄くらいになって、そしてまた何年か経つと阿修羅みたいになる。光明皇后は幻の成長過程を表現させたのだと思います。仏像はすべて注文主がいて制作されるので、この時も光明皇后が八部衆について注文を出したと私は考えています。

天然痘や災害が相次いだ奈良時代

聖武天皇が大仏をつくった奈良時代には旱魃や飢饉、大地震、天然痘の大流行があり、たくさんの人が亡くなりました。天然痘では百万人が亡くなったと言われています。当時の日本の人口は約500万人と推定されているので、5人に1人が亡くなった。奈良時代の人たちも私たちと同じように家族が死ぬと悲しんだ。聖武天皇は「責めは我ひとりにあり」と言い、「私に徳がないから、私の政治が悪いから、天は罰を与えているのだ」と考えて、とても苦しんだ。

天然痘が流行した737年に、国は次のような対策を講じました。病気の症状や看病の仕方について細かく記した文書を発行し、「この文書が届いたらすぐに写し取り、ただちに隣国へ送付せよ。国司は所管の国内を巡行し、すべての人に告知せよ。重湯や粥にする米のない者がいたら、国司は正税の倉を開いて支給し、使用量を太政官に報告せよ」と命じた。紙に写して隣の国まで持っていき読みあげて渡す。もらった人は書き写して、自分の分は置いておき、書き写したものを隣の国に持っていき読みあげて渡す。伝言ゲームのように、奈良の都から東北、九州までこの情報が伝えられていきました。奈良時代の国家が天然痘から人々を救いたいという強い気持ちがあったことが伝わります。

もちろん神や仏にも祈りましたが、奈良時代の人も必死に対応しようとしていた。人間のできることには限界があり、現代でさえ人間のできることは悲しいほど少ない。どんなに願ってもどんなに努力してもどうにもならないことはたくさんある。奈良時代も現代も一緒です。

人類の歴史は疫病の歴史──スペイン風邪とペスト、コレラの大流行

今から百年前の1918〜1920年にスペイン風邪が世界中で大流行し、5億人が感染し、5千万人が亡くなったと言われます。この時期は第一次世界大戦だったので、感染者数や死者数は機密情報にあたるので発表されない。スペインは戦争に参加しておらず中立だったので、情報を隠す必要がなく、どれだけの人が感染して死んだのかが明らかになっていた。世界中の人たちがスペインで大変なことが起きていると思い、その名が付きました。アメリカでは病院のベッドが不足し、仮の施設にたくさんの患者が横たわっている写真が残っている。百年前も現代も同じです。スペイン風邪は日本でも流行りましたが、皆マスクをしていた。人混みに行かない、夜の街に出ないというのも一緒。今も新型コロナウイルスの薬もワクチンもないから、百年前と一緒のことしかできない。アメリカではマスクがないと路面電車で乗車拒否されましたが、今と一緒ですね。13世紀のヨーロッパではペストが大流行し、人口の3割が亡くなりました。防護服とマスクをつけた医者のイラストが描かれていて、今とよく似ている。

新型コロナウイルスは「未曾有の疫病の大流行」とよく言われますが、未曾有ではない。人類の歴史は疫病の歴史です。奈良時代には天然痘を含めて何回か疫病が流行り、平安時代や鎌倉時代、南北朝時代、江戸時代、明治時代にも疫病があった。明治時代にはコレラが大流行して、16万人が感染し、10万人が死んだ。そんな大変なことを人類は無数に繰り返し、それを乗り超えてきた。疫病の流行は3年以上は続かない。必ず終わります。新型コロナウイルスによって初めて、奈良時代の人の気持ちが他人事ではなく、本当に大変だったのだと分かる気がしました。聖武天皇はそういう状況の中で考えぬいた末に大仏をつくろうと思い立ったのです。

小さな力をたくさん集めてつくる

一本の草やひとにぎりの土で大仏をつくる

大仏の本当の名前は盧舎那仏で、華厳経に登場する仏様です。華厳とは「華でかざる」という意味です。華は「人の行い」のことを指します。誰も見ていないところで誰かが良いことをする。誰も知らない。でも、それがひとつの小さな華になり、この世界を美しく飾る。そんなふうに皆でこの世界を美しく飾ろうと華厳経は説いています。昨日、白血病でずっと休養していた水泳選手の池江璃花子さんが、久しぶりにレースに出場して素晴らしいタイムで一着になりました。レース後に「これが誰かの小さな希望になったら嬉しい」と彼女が言ったとき、私は華厳経を思い出した。彼女がひとつの華を咲かせ、この世界を美しく飾ったと思いました。

華厳経は「何もしなくても良い。あなたは存在しているだけでひとつの華であり、この世界を美しく飾っている」と説いている。華厳経ができた二千年前にこんな考え方があったんですね。華厳経では「この世界に存在しているあらゆるものは、すべて等しく尊い」ということになる。華厳経は究極の平等思想です。

盧舎那仏は毘盧遮那仏とも書かれており、インドの言葉のヴァイローチャナを漢字にしたものです。ヴァイローチャナは太陽の光のような仏という意味です。太陽はすべての存在に等しく明かりと温もりを与えてくれます。聖武天皇はそういう仏様をつくりたかったのです。自分の子どもが死に、旱魃や飢饉、大地震、天然痘の大流行があって、すべての人が苦しみ悲しんでいる。聖武天皇はお経のなかで華厳経が一番大切だと言っています。

大仏造立の詔では「すべての動物、すべての植物が、ともに栄える世の中を作りたい」と言っている。これは華厳経の考え方ですね。そして「大きな力で造るな。たくさんの富で造るな」とも「一本の草を持って来た人にも、ひとにぎりの土を持って来た人にも、手伝ってもらおう」ともおっしゃった。大きな力とたくさんの富のある人の方が役に立つはずなのに。

重源による大仏再建──尺布寸鉄といへども

苦労の末につくられた大仏は2回焼失しました。1180年、源氏と平家が対立していた時、東大寺や興福寺はアンチ平家だったのですが、平清盛が息子の重衡を派遣し、火をつけた。平家物語によると、大仏殿の中には千人もの人が逃げ込んでいて、大仏殿が焼け落ちた時、その人たちは皆、大仏さまの横で焼け死にました。大仏ができても、この世界は何も変わらない。すべての動植物どころか、すべての人が幸せになることなんて永遠にないですよ。

けれど、また大仏をつくりたいと皆が思った。でも、それは無理でした。奈良時代の人にできたことが、鎌倉時代の人にはできなかった。あれほど大きな仏像を銅でつくり、大きな大仏殿をつくる技術が、もう日本にはなかった。人間は進歩しているように思いますが、それは間違いです。皆んなが無理だと思っていた時、重源というお坊さんが現れて成し遂げました。再建にはすごくお金がかかるけど、東大寺も京都の朝廷もお金がない。重源は全国を周り寄附を集める勧進をした。勧進状に「尺布寸鉄といへども」と重源は書いた。「一尺(約30センチ)の布でも一寸(約3センチ)の鉄釘でもよいから、あなたができる応援をお願いします」と言って、重源は日本中を周ったのです。聖武天皇と同じように、重源も小さな力をたくさん集めて大仏を復興しようとした。

お金が集まっても技術がないのはどうしたのか。その技術がある中国に重源は三度行ったことがあったのでネットワークがありました。陳和卿という中国の工人と日本の工人が協力し、李宇という中国の大貿易商が中国からお経を輸入し、伊行末という石工と日本の工人が協力して大仏が再建できた。実は大仏殿や南大門は中国にもないので、中国にもないものがつくられたのです。

公慶による大仏再建──一針一草の喜捨

けれど、戦国時代にまた大仏と大仏殿が焼かれて、今度はなかなかうまくいかなかった。平家の時は約10年で復興できましたが、この時は百年経っても復興できなかった。百年が過ぎ、公慶というお坊さんが現れた。復興のプロだった重源はあちこちで経験があったけど、公慶はそんな経験はなかった。重源には50人の仲間がいて手分けして日本中を周ったけど、公慶はひとりで青森から鹿児島まで周って勧進しました。勧進状には「一針一草の喜捨」と書かれていました。小さな力をたくさん集めてつくるというのが、大仏の一番大切な考え方なのです。公慶が京都を周った時の資料が残っていまして、自分が勧進して歩いたところを地図に赤く塗ったものですが、すべての道を歩いてすべての家を一軒ずつ徹底的に周っている。

大仏殿を再建するのも大変で、26,723本の木が必要でした。たくさんの瓦がのっている大きな重たい屋根を、大虹梁と呼ばれる巨大で丈夫な2本の木でがっしり支えているのですが、その2本がなかなか見つからなかった。公慶は日本中を探したけど見つからない。ついに九州の霧島の白鳥神社で巨大なアカマツが2本見つかりました。奈良公園のクロマツはすぐ折れるけど、アカマツは粘っこくて折れにくいので、重さのかかる水平なところにはアカマツが良いのです。その2本を奈良まで運ぶのもすごく大変だった。それらを地上40メートルまで持ち上げて、屋根をかけて瓦をのせたら終わりというところまで、20年かかった。

さあ後もう少し、という時に公慶は急死しました。今でいう過労死です。東大寺の裏手にある五劫院に公慶の墓と、その像を祀る公慶堂があります。近づいてその像の顔を見ると、片目が真っ赤で病気だったことがわかる。その像の眼差しの先には、公慶が見ることのできなかった大仏殿が見えます。公慶が苦労して運んだ大虹梁が、今も大仏殿の屋根を支え続けています。

大切に受け継がれてきた奈良の文化財

国宝の仏像は奈良がダントツ一番多い

大仏は国宝の仏像ですが、国宝の仏像(正確には国宝の彫刻で、仏像だけでなく神像、肖像も含む)は138件あります(2019年)。その138件は47都道府県のどこにあるのか、都道府県別ランキングを見てみましょう。まず第7位は、ひとつだけ持っている岩手県と福島県、神奈川県、静岡県、兵庫県、大分県。福島県にあるのは、奈良の徳一というお坊さんが作った仏像なので、0.5くらい奈良にカウントして良いのではと思います。静岡も奈良の仏師の運慶がつくったので、これも0.5くらい奈良にカウントしたい。兵庫も奈良の快慶がつくったから0.5くらい奈良にカウント。第6位は東京が2つ、第5位は滋賀が4つ、続いて第3位は大阪と和歌山が5つ。和歌山の高野山も運慶がつくった仏像だから0.5くらい奈良にカウントしたい。第2位は京都で40件。浄瑠璃寺は奈良と京都の境目にあるけど、本当は奈良なのです。区域でいうと京都府木津川市ですが、もともとは興福寺のお坊さんが隠居するところなので、奈良の文化圏ですよ。第1位はもちろん奈良で76件。京都のほぼ倍ですね。薬師寺の薬師如来や法隆寺夢殿の救世観音、中宮寺の菩薩半跏像など、仏像は奈良がダントツ第1位です。

次に時代別に見てみましょう。飛鳥・白鳳時代の国宝の仏像は15、奈良時代は24、平安時代は70、鎌倉時代は25、中国の唐の時代のものが3、北宋が1、これで合計138件です。飛鳥・白鳳の15というのは、奈良に11、京都に3、東京に1ですから奈良が断然多い。奈良時代は奈良22、京都1、大阪1で、奈良がやはりすごい。「はじまりの奈良」とよく言われますが、飛鳥・白鳳・奈良時代の国宝の仏像はほとんど奈良にあると言ってよい。都が京都に移った平安時代は、京都が30、奈良25、滋賀4、大阪4、和歌山3、岩手・福島・東京・大分が1。意外に接戦ですね。鎌倉時代は奈良17、京都4、神奈川・静岡・和歌山・兵庫が1。断然奈良です。都が京都に行った後、奈良はだんだん寂れていったというイメージもあるけど、その後の時代も頑張っています。

手をかけると永遠に建ち続ける、奈良時代の最高の木造建物

奈良には8世紀の建物がたくさんあり、法隆寺の金堂は7世紀でさらに古いですが、781年以前の木造建築は世界で奈良にしかない。しかも古いだけでなく、奈良時代の建物は最高です。唐招提寺の金堂は2000年から2009年に10年間かけて、完全に解体してから組み立てる解体修理をしました。その後、2009年から2020年まで薬師寺の東塔の解体修理が行われましたが、東塔の全面的解体修理は史上初でした。

日本の文化財は木や紙、絹でできているものが多く、修理をして手をかけ続けないと、後世に伝えられない。木造の建物も百年間放置したら崩れますが、手をかけるとその命は永遠です。東京スカイツリーもエッフェル塔も三千年後には建っていないけど、奈良時代の木造建築は今までのようにメンテナンスをすれば三千年後にも建っていますよ。

中国の一番古い木造建築は山西省にある南禅寺の本堂で、782年に建てられた。中国や朝鮮半島から日本は学んだと言われますが、中国や朝鮮半島、日本の建物は形がそれぞれ全然違う。なぜこんなに違うのかということが大事。韓国の一番古い木造建築は、1376年に建てられた浮石寺の本堂、無量寿殿。浮石寺って変わった名前ですが、無量寿殿の隣にちょっと浮いているようにも見える大きな石があるからです。

末法の時代を生きぬくための思想

どうしようもない悪い時代にどう生きるか──唐招提寺での貞慶の実践

平安時代から鎌倉時代にかけて日本は激動の時代でした。武士が登場して内乱や災害が相次ぎ、飢饉や地震、大火事が次々に起こり、奈良では東大寺や大仏、興福寺が焼失した。もうすぐ世の中が終わり、新しい世の中ができるかもしれない、ちょうど継ぎ目の時代だと言われていた。つまり「末法の時代」、どうしようもない悪い世界で、そこには苦しみ、悲しみしかない。もしそんな世界にいたら、どうしますか。

ひとつの良いアイデアとして「この世界を出て、別の世界に行く」と言った人が鎌倉時代にいました。浄土宗を開いた法然、浄土真宗を開いた親鸞がそう言った。南無阿弥陀仏の念仏を唱えると、別の世界、すなわち極楽浄土に行ける。これがものすごく説得力をもち、浄土信仰の人が増えました。もうひとつのアイデアとして「この世界を変える」というやり方があります。この汚れた世界、すなわち穢土を幸せな住みやすい世界に変えたら良い。鎌倉時代にそう唱えたのが貞慶、明恵、叡尊。どちらも納得できる考え方ですね。

興福寺のお坊さんだった貞慶は、文章がすごく上手で、お話も神がかっているほど上手。でも惜しむらくは声が小さいと言われていた人でした。世界を変えるには「仏教を元気にしたらいい」と貞慶は考えた。人を支え、国を支えるのが仏教なのに、今は坊さんが戒律を守らない、仏教も勉強しないから人も国も支えられない。坊さんは戒律を守り仏教の勉強をしようと言った。建物ができただけではダメで、そしてお寺も元気にして、そこに集まった人も元気にならないといけない。そのためにお金がかかるので、小さな力をたくさん集める勧進が必要。皆から少しずつお金をもらうのが良いことなのです。例えば百万円が必要な時、ひとりのお金持ちが百万円を出すよりも、千人の人が千円ずつ出す方が、絶対に後につながる。貞慶もそういう考え方です。

唐招提寺では毎年10月21・22・23日に釈迦念仏会が行われます。1202年に貞慶が始めた行事です。当時、唐招提寺は衰退しており、お坊さんがひとりもいなかった。仏教の行事をする時にはご本尊が必要ですが、当初は舎利しかなかった。しかし、皆で釈迦如来像をつくろうとなって、約1万人が力を合わせて1252年に釈迦如来像ができました。現代でも一万人を集めるのは大変なことで、私には世界を変えた出来事と言ってもいいくらいです。

どうしようもない悪い時代にどう生きるか──西大寺での叡尊の実践

叡尊は鎌倉時代に奈良の西大寺を復興したお坊さんです。西大寺は近鉄西大寺駅の近くにある寺で、今は誰も知りませんが、奈良時代の後半には東大寺の次に大きくて日本で二番目の寺でした。しかし、平安時代以降に西大寺は急速に衰退し、鎌倉時代になるとほぼ潰れかけ。叡尊が人生のキーワードにしていたのが「興法利生」ですが、興法とは正しい仏教をさかんにすること、利生とは皆を幸せにすること。本当の仏教と僧侶をつくろうと言った。叡尊は45歳で次のような誓いを立てました。「五濁悪世(最低最悪の世界)において、もっとも苦しんでいる人たちを救おう、そのためなら地獄の苦しみに耐えよう。浄土(幸せの世界)へは行かない」と説いて、例えばハンセン病の救済活動も行った。西大寺の本尊の釈迦如来像を修理する時、顔の中に袋がぶらさがっているのが発見されました。袋の中には一巻の悲華経が入っており「お釈迦様だけが浄土へ行かず、苦しんでいる人々を救おうとして、私たちの世界に来てくれた」と書いてあった。叡尊の45歳の誓いは悲華経に倣ったものだったのです。

叡尊が新しく建てたり修理した寺は約700もあります。ひとつの寺を再建するのも大変で、興福寺の中金堂再建には300年かかった。叡尊グループは私有財産を一切持たない集団で、鎌倉幕府の有力者からの寄進も断りました。たくさんの人が少しの田畠とわずかなお金を叡尊に寄付してくれ他のです。叡尊に共感共鳴する人たちは女性に多く、小さな力をたくさん集めました。聖武天皇、重源、公慶、貞慶、叡尊……奈良にはそういう人が多いですね。奈良時代、平安時代、鎌倉時代、江戸時代に皆がそうやって大仏を再建したり、唐招提寺や西大寺を復興したのですね。

古器旧物の価値を見つめなおす

明治時代の御一新のさなかで古器旧物を守ろうとした人々

明治になり「御一新」という言葉が流行しました。あらゆるものを新しくする、古いものはもういらない、という考え方です。明治の初めに日本の伝統文化が廃れ、それまで大切にされてきた「古器旧物(=宝物=文化財)」が失われたのは、廃仏毀釈のためではなく、御一新の風潮のためでした。そんななかでも日本の伝統文化の価値に気づいている人もいた。その代表が薩摩出身の町田久成です。幕末の1865年から67年にかけて、27歳の時にイギリスに留学し、パリ万博にも参加しました。45歳で出家してこの世界から身を引きますが、明治の半ばまで町田久成がリーダー的存在でした。もうひとり、蜷川式胤もいて、この2人が明治時代に「日本にあるものは良いものだ」と言って頑張った人たちです。

明治政府も1871年に町田久成の提言を受けて、古いものを大事にするために日本のどこに何があるか調べようと「古器旧物保存方」という台帳を作り、翌年に約4カ月かけて古器旧物をもつ古社寺の調査を行いました。奈良にも調査で訪れて、その時初めて町田や蜷川らによって正倉院宝物の写真撮影も行われました。明治の初めは廃仏毀釈で無茶苦茶だったというのは、当時頑張っていた人たちに失礼ですね。

正倉院宝物の魅力──古いものは出来が良く、時とともに増す価値

756年に聖武天皇が亡くなり、彼が大事にしていたものを納めたのが正倉院宝物です。現在、奈良国立博物館で開催中の特別展「よみがえる正倉院宝物―再現模造にみる天平の技―」において、宮内庁正倉院事務所長の西川明彦さんが「新しいものにも良いものがある」とおっしゃった発言がなかなか興味深い。その前提には「良いものは古いものだ。新しいものは良いものじゃない」という考えがあり、それが文化財に関わる人間の常識だからです。国宝の仏像だと一番新しいのが鎌倉時代のものです。室町時代以降の仏像で国宝はありません。どうして国宝になるかというと、古いからではなく出来が良いから。古いものは出来が良いのです。そんなふうに、昔はできたけどもうできなくなったというものがたくさんあります。

奈良は「シルクロードの終着駅」と呼ばれたことから、シルクロードを通じてもたらされたようなイメージもありますが、正倉院宝物の90%以上が国産です。でも今はもう作れない。人間国宝の人が同じようなものをつくろうとして一所懸命つくったものを本展では展示していますが、本当に再現できたかどうかは言えません。そして、千数百年も経つと、時間とともにプラスアルファが加わっていく。人間だって、年を重ねるとともに成長し魅力が増していく人生を送るべきだと、正倉院宝物を見ていると思いますね。

大切に守られ伝えられてきた伝世品

正倉院宝物に伝わるガラスの碗「白瑠璃碗」はペルシャで作られてシルクロードを通って日本に入ってきました。イランやイラクで発掘調査をするとそっくりのものが出てきますが、千年以上も土の中に入っていると透明ではなくなっている。正倉院の白瑠璃碗は透明できらめいているけど、発掘調査の出土品は不透明できらめいていない。

東大寺や春日大社、興福寺、法隆寺に伝わる伝世品は、発掘された出土品とは異なり、地上で時には修理をして、保存する場所や環境も考えながら、大切に守られ伝えられてきたものです。古くからの伝世品は、実は日本が世界一多いのです。日本人は古いものが好きで、古いものを大切に守り、修理して後世に伝えてきたから今がある。しかも奈良には古くて良いものが一番たくさんあって、それらはすべて守られてきたもの。そういう奈良に住みながら奈良の文化に関わる仕事ができていることを、私は本当に幸せに思っています。

奈良ノ諸君ニ告ぐ──過去と現在をつないで歴史を捉える

最後にアーネスト・フェノロサの言葉を示して終わろうと思います。フェノロサは明治時代に日本にやって来て、日本人の多くが日本の古いものなんて価値がなくて要らないと思っていた時代に、日本の文化は世界最高の文化のひとつだと言って、文化財調査を積極的にやった。1888年6月5日、近鉄奈良駅から歩いてすぐの浄教寺で、フェノロサは「奈良ノ諸君ニ告ぐ」という講演を英語で行い、岡倉天心が通訳した。その最後のところだけご紹介します。「今日此奈良ニ存在セル古物ハ独リ奈良一地方ノ宝ノミナラズ、実ニ日本全国ノ宝ナリ、否、日本全国ノ宝ノミナラズ、世界ニ於テ復タ得ベカラザルノ至宝ナリ、故ニ余ハ信ズ、此古物ヲ保存護持スルノ大任ハ即チ奈良諸君ノ宜シク盡スベキ義務ニシテ、又奈良諸君ノ大ナル栄誉ナリト」。それから132年が経ち、奈良にあるものがそんなに素晴らしいものであると、奈良に住んでいる大半の人は思っていないでしょう。

今日の話を振り返ると、奈良時代の人も鎌倉時代の人も明治時代の人も現代の人も、皆ちっとも変わっておらず、聖武天皇や華厳経の思想は21世紀の今も大事にしたい考え方です。大きな力や富ではなく、皆で小さな力を合わせて何かをすることが大事だと信じ、奈良時代や鎌倉時代、江戸時代に頑張った人たちがいる。過去と現在って別物ではないのです。明治を境に博物館と美術館を分けるのは何の意味もないし、日本の長い歴史や人類の長い歴史を考える時に昔と今を分けずに、トータルにいろいろなことを考えていく方が良い。そして、奈良にいるとそれができるような気がします。

受講者の感想

大仏殿の創建、再建は歴史を超えて「小さな力でたくさん」という意思のもとで作られていました。これは大仏や大仏殿が当時の人々の広い信仰を集めた要因だと感じられました。もし現在大仏殿に何か起こり、再建するとなれば国家の力で知らないうちに再建されてしまうということが予想されますが、このような方法ではこれまでの意思の伝承は途切れてしまうと考えます。最後の質問にもあった、現代では当時のような祈りや願いのこもった工芸品ができないということも上記につながるように感じ、現代の工芸品も当時の要素を持ち合わせることができればよいと思いました。(小林裕香)

今回の講義を通して、初めに思い浮かんだ言葉が、「希望」でした。明るい未来を願って大仏が作られ、人々の希望となっていたのではないかと考えるからです。東大寺の大仏については知っているようで知らないことが多く、歴史などとても勉強になりました。(岡田悠希乃)

歴史はすべて現代史である、というテーマの講義で非常に興味深かった。最後のまとめを聴くことができなかったため、西山先生がどう結論付けられたのかが非常に気になる。私としては、今回のテーマになぞらえると、古代であろうが人の感情や対応に大きな変化はなく、現代と同じように悩み苦しみ、それでも前をみて難局を乗り切ってきた先人たちに学ぶことが大いにあるという認識でもって歴史を捉えるべきなのではないかということが理解できたのは非常に意義深い。『元気いっぱい、幸せいっぱいの人が仏像を作ったりはしない』という先生の話が非常に興味深かった。今後、そのような観点で奈良の仏像を見学してみたいと思った。(鈴木直子)

私たちはいつの時代も、大きな善の象徴や、華に譬えられる美しきものの結晶を求めてきた。
それは、霊山と大きな空をひと続きに抱える安らかな都。
あるいは、その真ん中に空洞を抱えた大仏や塔。
自らを虚しくしてなしえる偉業。
仏像や塔、それらの事業も大事にみえるが、それらはひとびとのエネルギーを集める象徴的な器であり、その空洞性こそが実は重要なのではないか。
現代の私たちはいわばその器をみているのだが、それを拝み頼りにしてきた数多のひとびとの思いが、それらをさらに力強いものとする。
私たちは線的にリニアな一本道を生きているのではなく、エッシャーの騙し画のように、前に進んでいるはずがいつの間にか後ろにもどっているような螺旋の回廊にいる。
そして、その回廊の真ん中には空洞がある。
それゆえ、その回廊、私たちの時空の全てを抱えて存在する世界は、そのままで美しい。(小林史恵)

私が今回の講義で最も印象に残ったことは興福寺西金堂の八部衆がどれも青年のような顔立ちをしていたことだ。光明皇后が亡き子を想って八部衆を作らせたことを知り、今も昔も家族を想う人々の考えは変わっていないことを知り、胸がじんとした。それと同時に、盧遮那仏でも、他の仏像でも人々の想いや願いが込められていると考えるようになり、ただ美術品として仏像を見るのではなく、どんな想いや願いで作られたのか時代的な背景をもっと知りたいと思うようになった。(石川理香子)

西山さんのお話を通して感じたことが、奈良の歴史は「小さな力をたくさん集めて」つくられてきたということでした。ふりかえりタイムでは、他の参加者の方と廬舎那仏・大仏殿が焼失した度に再建を先導していった重源、公慶など、その“人”の魅力や思いによって、たくさんの人の心が動いたという話をしました。また、先人のお話をされている西山さん自身の魅力に私たちが心を動かされたと思い、今回のレクチャーで私が一番感じたことは、「いつの時代も“人”(の思い)で動いていく」ということでした。教科書で語られる歴史では、特定の人物が社会を動かしてきたように語られますが、仏像などの裏にある歴史からは、その時代に生きた人々の思いや気持ちによって形作られ、現代(いま)に繋がっているのだということを感じました。(櫻井莉菜)

覚悟や志のある人に出会うと心が震える。寄進をした人たちは、彼らの言葉やその志に希望を感じたのではないかと思う。そして、小さな行いだけれど、当人にとっては日常で思わぬモノや人に出会い、思わぬことをすることになった時の小さなドキドキや興奮があったのではないかと思う。人が想いを持って、言葉と行動で誠実に伝えていくことによって、少しずつその熱が伝わり、じわじわと広がっていく。小さな力をたくさん集めることで、その後に繋がってくるのだという考え方もとてもいいなと思った。
また、歴史上の単語や人物名でしかなかったことが、人の想いがのっかった個人の物語として語られた途端、いつの時代でもありえるひとりの人間の出来事として豊かに立ち上がってきたのがとても印象的だった。物事の背景を知ったり、誰かの物語であると想像できるだけで、自分に引き寄せてリアルに考えられるのかもしれない。(井上唯)

西山先生のお話を聞いて、一冊の本を読んでいるような感覚になりました。
まず、コロナウイルス感染症による影響が衰えを見せない中、過去に人類が何度も悲惨な疫病を乗り越えてきて今があるということがよく分かりました。不安がなくなるわけではありませんが、それでも大丈夫と思えるようなお話で、多くの人と共有したい内容でした。
始まりの地とも言える奈良で、東大寺の大仏がどのように造られ、再建されてきたかという物語を知り、「小さな力を沢山集める」という考えに感銘を受けました。その分、何を成し遂げていきたいのかを明確に、かつ情熱的に伝えていくことが前提として必要だと感じました。
歴史はそれが本当だったかどうかを確かめることは難しいものだと思いますが、学生時代に聞いた授業とは違い、歴史が人の想いの積み重ねであるということを実感しました。( noripu)

ファーストインプレッションは「華」である。華厳経の華厳とは「人の行い」「存在そのもの」のことを言い、誰かがどこかで良いことをして、この世界を美しく飾っていくということであるというお話がふわっと心に届いたからだ。
東大寺盧舎那仏や興福寺阿修羅像など、仏像が造られた背景に「死と鎮魂」があった。また何度も焼失した大仏や大仏殿を再び再建するために立ち上がったたくさんの人々の力の意味を考えた時、華厳の意味する「人の行い」「存在そのもの」以前に一人一人の心の集まりであることを理解した。はじまりの時は気合が入っているとの西山先生のお言葉があったが、信仰が生まれるその時の摩訶不思議なパワーは、何でもない一人一人の小さな心の集まりなのだ。
だとすると、盧舎那仏を前に手を合わせている私も、歴史と地続きの存在なのだと思えてきて、先人も今を生きる人々も、すべてが尊いという感覚が湧いてくる。(山本篤子)

小さな力をたくさん集めること。印象に残ったのはこのフレーズでした。
手塚治虫の漫画『ブッダ』の作中、悟りを得るシーンで無数の小さな命のかけらが集まって一つのものに還っていく場面があります。
それを思い出しながら講義を聴きました。
仏像建立の裏側には、死の深い悲しみや鎮魂がいつもあったということも印象的でした。
聖武天皇は、「富と権力を行使して大仏を建立する」と言った。
その一言には実は広がりがあって、その力の使い方に今回の講義のポイントがあるように感じました。
つまり、富と権力という言葉を、影響力という言葉に置き換えるなら、聖武天皇はその影響力を、「持たざる人=一枝の草や一握りの土を携えて協力を願い出る人」に目を向け、見つけ出し、関わりを生み出すために使ったということです。そして、力は小さくとも気持ちを携えた人が集い、力を合わせたものは尊いのだと。
「造っている間も1日に三度、盧舎那仏を拝みなさい」とした聖武天皇は、大仏建立の一大プロジェクトを作業的なものではなく、仏像建立を通して仏と個人の一人ひとりがパーソナルな関係を結ぶこと、そのことに重きを置いたのではないかと考えました。それは今の言葉で置き換えると、「行為に気持ちを込める」ことを重んじる感覚に近いように、私は感じました。(宰井琢騰)

今回の西山さんのお話を伺って、人の歴史は様々なことが繰り返されているのだと考えました。しかしその中でモノに対する考え方は大きく変わっているようでした。西山さんの言われていたように「時が経つと価値の増すもの」というのは現代では減っており、「“今”美しいものが“美しい”」というように瞬間的な美しさの方が価値を見出されているように思いました。もちろんどちらが良い悪いといった話ではありませんが、長く大切にされたモノの美しさを改めて考える機会をもっと作りたいと考えました。(M.Y.)

令和に改元してから、台風や地震といった自然災害、そしてこのコロナウイルスと不安定な社会情勢が続き、SNSを中心として「令和大仏を建立すべき」という意見を多く聞いた。大仏とは、天災、飢饉、疫病といった多くの死を鎮魂するために建立されてきたものだからであろう。大仏=鎮魂。世界中とリアルタイムに情報を交換しあえる現代においても、日本人に変わらない心性が生き続けている。かつての勧進は、クラウドファンディングとして現代に蘇った。「この世に存在するあらゆるものは全て等しく尊い」と説いた華厳経の教えは、SDGsにも通ずる。講義によって1000年以上前の日本と現代がつながっている実感が持てた。どれほどの時がたっても人は大きく変わることなく、歴史は繰り返されるのかもしれない。それは楽観なのか、悲観なのか。あるいは無常に至るのか。そういえば、無常観が綴られた方丈記の背景にも天災や疫病があったことを思い出した。( M. S.)

歴史と現代が繋がっている。知識としては理解していたのですが、講義を聞き進めるうちに、歴史は繰り返し、現代は延⻑線上にあることをしみじみと肌で感じることができました。歴史上の⼈物の優しさや、背景に触れることで、リアルに今と繋がっていて、「今をどう⽣きるのか」を⽰唆してくれていると感じました。読めない時代、予測不能と云われているのは、現代に限らず…歴史上繰り返されてきたことで、少しゆったりと構えて、遠くを⾒ること(過去や未来)が⼤切なのではないかと思いました。(鈴木結加里)

「この世界に存在しているあらゆるものは全て等しい」まさに今の時代が、理解すべき言葉だろう。世界では Black Lives Matterや、SDGsゴール5の「ジェンダーの平等を実現しよう」といった、人間が生きる上での尊厳について改めて問われている。しかし、なぜか日本に住む多くの人たちの中で、人権平等をうたい変革を起こそうという気配は感じられない。むしろ、「女性が活躍しする社会を!」「女性にもっと機会を!」とか発するとフェミニストと呼ばれたり、人権運動好きな人みたいな、なんだか何歩か引かれて見られている感じが拭えない。(そもそもフェミニストの言葉が一人歩きしているとも思うが…)以前、ニュージーランドの首相ジャシンダ・アーダーン氏はあるインタビューで「女性であることが障害になったことは今までにない」と話していた。このコメントを聞いた時、とても羨ましく思った。というか、そんな事があるのか!?と。
滋賀の田舎に引っ越して3年、男女が任されていることの違い、できることの違いに驚いた。一番は、祭の場面。関東生まれ関東育ちの私は夏になると神輿を担いでいた。しかし、こちらでは男が担ぎ、女が男達の世話をする。世話というのは、町内の男達のご飯の準備を準備し、ふるまい、酒を注ぐ。私はここの土地にいたら一生神輿は担げない。こうやって何百年も続く祭を繋いで来たことは十分理解できる。実際に、滋賀県の男女の地位に関する意識調査(「令和元年度男女共同参画社会づくりに向けた県民意識調査」より)にて、社会全体で見ると男性の方が優遇されていると答えた人が72.7%である。しかし、本当に女性は平等を求めているのか。限界集落まで危機的状況になれば、変革をせねばならぬと一歩を踏み出すが、事足りるちょっとした田舎では生活に困ることはないから、変化を求めないだろう。さらに国によっても優遇や平等の尺度が違う。「この世界に存在しているあらゆるものは全て等しい」と切に願うが、私も日本の空気に洗脳され「どうせ世界を変えられない」と諦めているのかもしれない、とこの文章を書きながら思った。(渡邉ゆかり)

ディレクターの感想

想いを形にして残して伝える。現代につながる壮大な歴史の物語。美大生が最初に聞くべきレクチャーだなと思いつつ、これを最初に聞いたら何も作れなくなるのではないかとも思った。あるいは、誰もが保存修復の道を選んだりして。それも悪いことではないし、磨いた技芸で過去と未来をつなぐ数千年に及ぶ人間文化の担い手になれるなら、もっと保存修復が憧れの対象になってもいい。ただ、継承ではなく自ら何かを表現したいと思っている学生に西山先生ならどんなアドバイスをされるだろうか? 表現には飛躍が必要だから、歴史探求ばかりに勤勉になると、自分が考えることや作るもののちっぽけさを目の当たりにするばかりで何もできなくなる。また、意識の高い美大生は、大学のアトリエや廊下に散らばるみんなの習作をみて、自分たちは結局ゴミしか作っていないのではないかと不安になる。モノではなくコトをというアートプロジェクトの手法は、たとえばこうした反芸術の精神から立ち上がっていることも確かだ。想いを形にしない方法で伝える……。なぜかこんなふうに壮大な歴史に対抗するような考え方でレクチャーを聞いてる時、華厳経の「華」はフラワー(モノ)ではなく、人々のおこない、存在そのもののことであると聞いて、芸術表現を特別なものと捉えすぎている自分に気がついた。人が何かを表現したいと思うのは当然であって、それは小さなおこないである。でもそれが大事だということ。「大きな力で造るな、たくさんの富で造るな」も「尺布寸鉄」も「一針一草」も、アートプロジェクトがやりたいことと確かに通じている。千年以上前からこうしたコンセプトがあったと考えれば、対抗心ではなく、「歴史は現代史」というタイトルがすっと自分の中で腑に落ちた。自分の作品を千年後まで残したいと考えたことがないのは(表現者としてすべてをここに賭ける人も少なくない)、壮大なコンセプト(土台)のある奈良で生まれ育ったことが影響しているかもしれず、それはやはり幸運だったと思える時間だった。(西尾美也)

  • Update: 2020.09.23 Wed.
  • Editor: 西尾咲子(プログラムマネージャー)
  • Photographer: 茶本晃生

講座について

LECTURE OUTLINE

  • ラボメンバーコース
  • ゲストコース

西山厚

〈奈良〉の信仰と美術──歴史はすべて現代史である

2020年8月30日(日) 14:00–16:00

CHISOU lab.

仏教美術史の第⼀⼈者で、奈良国⽴博物館名誉館員の⻄⼭厚さんをお迎えし、かつて⼤陸との間で⼈的・物的交流が頻繁に⾏われる中、疫病や天災、争乱など困難な出来事を経て育まれてきた奈良の⽂化芸術に焦点をあて、地域のコンテクストを現代史的視点から読み解く⽅法について学びます。

西山厚
仏教史・仏教美術史/半蔵門ミュージアム館長/帝塚山大学客員教授

1953年徳島県生まれ、奈良県在住。奈良国立博物館の学芸部長として「女性と仏教」など数々の特別展を企画。現在は半蔵門ミュージアムの館長を務める。奈良と仏教をメインテーマに、人物に焦点をあてながら、様々なメディアで生きた言葉で語り書く活動を続けている。