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  • レクチャー

岡井崇之「地域のイメージは誰のものか」

2020年10月25日(日) 14:00–16:00

奈良県立大学 CHISOU lab.

Editor: 西尾咲子(プログラムマネージャー)

岡井崇之「地域のイメージは誰のものか」

メディア研究という切り口から社会の仕組みや問題を考察する岡井崇之さんをお招きし、観光政策や地方創生のもとでつくられる地域イメージを解き明かしながら、地域で企画を実施する際に必要な批評的視点について学びました。

メディアによってつくられる「地域」

メディアと呼ばれるテレビ番組や、新聞、雑誌などの記事がどのように人々の価値観をつくったり、社会に影響をもたらしたりしているかを考える、メディア論という領域で研究をしています。奈良県立大学には地域創造学部がありますが、常に「地域創造」や「地方創生」ということが大きな課題としてあります。当然、学生たちも、地域創造学部ですから、「地域のことをやるんだ」とか「観光のことを学ぶんだ」という意識で入ってきます。そのような中で僕は少しだけ違和感を感じています。それは、集客とか知名度、あるいは、学生を何人どこに連れていったかとか、すごく形式的な評価軸で地域貢献というものが測られる。前向きでやる気のある学生たち対して「自由にテーマを考えてください」と言った時に、学生が考えてくるテーマは一様に「商店街活性化」、「シャッター通りをどうしたら変えられるのか」、「どうしたら集客できるのか」。もちろん、それらがダメなわけではなくて、現実的には考えていかなくてはならないことなのですが、もっと根本的なところから考えていく必要があるのではないかと思っています。

ここでいう「地域」とは何を指すのでしょうか。「地域に貢献しよう」、「地域で創造しよう」と言う時の「地域」とは、一体何を指すのでしょうか。「地域」と言う時の、その担い手や主体は、一体誰なのでしょうか。多くの場合は行政などの一部の人を指しますが、地域の中には本当に多様な人たちがいて、地域というものができていく。それから、「地方創生」という効果についてもよく言われますよね。例えば、オリンピックなどのメガイベントでもよく謳われますし、阪神タイガースが優勝した場合もその効果についてよく話題になります。その場合の効果とは何なのだろうかと言うと、だいたい経済効果によって測られる。経済効果の中でも、プラスの効果だけが測られるわけですね。しかし、経済には逆効果もありますよね。

それは機能についても同じです。プラスの機能だけ測られてしまう場合が多いですが、機能には逆機能というものがあります。社会学では、顕在的機能と潜在的機能といって、見えていて知られている機能と、見えない機能があるので、正機能と逆機能にも見える正機能と見えない正機能があります。このように機能と一口に言っても、逆機能もあるし、見える機能と見えない機能も社会にはある。しかし、一様に「お客さんが集まった」とか、「お金が集まった」とか、そういう指標で測られてしまうことがあるのではないかと思います。

そもそも地方とは何なのでしょうか。この言葉は、特に東京を指す中央との対比でよく使われます。しかし、東京の中にも地方は存在しています。三宅島のような島や、奥多摩という自然豊かなエリアもあり、そこでは過疎が非常に進んでいるという問題もあります。もう一方の地方も同様で、それぞれの歴史や文化、政治、生活など、一口に地方と言っても実は多様なのですが、「地方」という言葉だけで一括りにされてしまう。これってすごく雑な捉え方をしているのではないでしょうか。

ステレオタイプによってつくりだされるイメージ

近年、地域に対するステレオタイプが非常に強くなっていると言われています。「地域創生」をキーワードに掲げて、国の政策やビジネスが進められ、地方のPRイメージというものがつくられてきました。その地域ならではの魅力をわかりやすく伝えるPRがなされるため、誰でも思い浮かべるような定番のイメージができてしまう。ダニエル・ブーアスティンというアメリカの作家が、『幻影の時代―マスコミが製造する事実』(創元社、一九六四年)という本の中で、現代の旅行は観光ガイドですでに見慣れたものを確認しにいくだけだ、というようなことを言っています。かつて旅行は、いろいろな違う時代と出会う、知らない人と出会うという冒険だったはずなのに、いつの間にか旅行客になってしまっているという指摘です。

地域ブランディングやPRは、特定のイメージを広めたり、地域のステレオタイプを強めたりしてしまいます。しかし、ステレオタイプには悪い面だけではなく、良い面もあります。それは、全体の傾向をかいつまんで理解するということです。このような理解する力を抽象能力と呼びますが、人間だけがもっていると言われています。パッとこの会場を見渡して、「皆さん、すごく熱心だな」というように、統計をとらなくても特徴をつかむことができるわけです。

しかし、気をつけなければならないのは、先入観から外れた出来事に目が向かなくなり、根拠のない偏見や差別につながる恐れがあることです。ヘイトスピーチの研究者がつくった「憎悪のピラミッド」という図式がありますが、ステレオタイプに基づく偏見が、それだけでは終わらずに、差別につながり暴力にまでつながっていく危険性を孕んでいるということは忘れてはいけません。また、地域に対してステレオタイプができてしまうと、そこに住む人々まで「このまちって、こういうまちなんだ」と、本当はそうではないかもしれないのに、そう思ってしまうということがあります。内面化されたステレオタイプによって、そこから先のいろいろなことを考えなくなってしまうという可能性があります。埋もれている地域の歴史や文化に対する想像力が欠けてしまうのではないかということです。

人々を結ぶコミュニティ・メディア

日本に住んでいると、バラエティ番組や音楽番組などのテレビ番組が盛んで、楽しいものがいっぱいありますが、この日本のメディアのあり方は、アメリカ型であると言われています。一九八〇年代から九〇年代にかけては、ヨーロッパの国々には公共放送しかない国が結構あったのですが、それ以降、アメリカ・日本型の商業放送がヨーロッパにも広まり、日本やアメリカではほとんど指摘されなかったのですが、ヨーロッパでは「マスメディアは非常に問題だ」という指摘がなされるようになります。なぜなら、先ほど挙げたようなステレオタイプに基づいていたり、ある人種や国の人々、女性に対する偏見があったり、ナショナリズムを喚起するような報道があったりしたからです。そこで、マスメディアに頼っていてはだめで、コミュニティのメディアが必要だという声が高まっていきました。二〇〇八年にはEUでコミュニティ・メディアが法的に位置づけられ、公的な支援をすることが決議されました。

コミュニティ・メディアとは一体何でしょうか。地域にあったらコミュニティ・メディアだということではなく、地域にあっても地域のマスメディアになっている場合があります。ここで言われるコミュニティ・メディアというのは、人々を結ぶものとして定義づけることができます。特徴としては、「非商業的であること」、「国家・政府からの独立」、「人々の主体的な参加」があります。これら三つの条件を考えると、日本でコミュニティ・メディアと呼ぶことのできるものは、実は実現していないと言えます。コミュニティ・メディアの本来的な役割として、地域のアイデンティティを確立すること、新たな価値や文化を創生すること、さらには個人個人の経験をコミュニティの共同的な経験の中にフィードバックしてそれを変容させていくことが挙げられますが、これはとても大事なポイントだと思います。

行政による「地域のブランド化」とメディア

みなさんは「I ♡ New York 」と書かれたロゴマークを見たことがありますか。このロゴマークは、一九七七年の「I Love New York 」という観光キャンペーンの一環で、ニューヨーク州がデザイナーに委託してつくられました。その背景には、当時ニューヨーク州の財政が非常に悪化し、犯罪が増加してまちが荒廃しており、人口も減少していたということがあります。そのような中でこのロゴマークが広まり、世界中で模倣されていく。この観光キャンペーンが地域の愛着につながっていったと言われています。

行政による広報には両義性があります。その一つが、影響力が大きく、人々を動かしすぎてしまうこと。もしかすると国全体の方向まで動かすような危険性をもっています。また、企業と行政のパブリック・リレーションズは、それぞれ異なるということに気をつけなければなりません。当然、企業は利益を求めるために広報を行いますが、行政は非営利を前提にしており、公平にサービスをしなければなりません。行政は企業とは異なり、競争原理をもっていないとも言えます。それから、行政の広報には制約があります。思想や表現の自由を守らなければなりませんし、特定の意見だけを主張してもいけません。日本では戦争に対する反省から、行政機関が大きなメディアを所有してはならないということが決められています。プロパガンダや政治宣伝、人々を扇動したり動員していくことにつながるとして自戒されてきました。

しかし、この傾向が近年大きく変化しており、行政がウェブサイトやTwitter 、Facebook などのSNSで、積極的に情報発信するようになってきました。地域広報ではシティ・セールスやシティ・プロモーション、地域のブランド化が謳われる傾向にあります。地域のブランド化では、地域から生まれた商品やサービスを、地域ブランド商品として売りだしています。それらは地域がもつイメージを高め、地域外からの需要を呼び込んで、観光客を誘致するということにつながりますので、非常に強く意識されるようになってきました。その背景には、観光客による商品の購入や交流人口が増加しているという面があり、行政の広報がマーケティングや広告宣伝に近づいてきているという状況です。

記憶としてつくりだされるもの、忘却されるもの

地域では大河ドラマや映画製作、アーカイブスなどを誘致することが全国的に行われるようになりましたが、その中でメディア表現への介入のような現象が起きています。例えば、「その撮り方では暗い番組になるから、もうちょっと明るく撮ってほしい」とか、「地域のこのような面をドラマにされたら困る」とか、「こういうことはしないでほしい」というような話を聞きます。地域の要求が強くなり、作家が表現したいことからかけ離れてしまう。

アーカイブスも様々な場所にできていますが、過去の記憶を形成して地域のイメージを形づくったり、記録をつくったりする時に、必ず忘却されるものがあるということは忘れてはいけません。一体何がつくりだされて、何が忘却されているのかを、鋭く見つめる必要があります。

ちょうど一ヶ月くらい前に自分の車を十数時間ほど運転し、東日本大震災の被災地を回ってきました。もうすぐ震災後十年目を迎えるのですが、コロナの影響によってイベントの報道があまりなされなくなったということが訪問の理由でした。もう一つ理由があって、個人的な話ですが、震災が起きた時に子育てしながら研究に没頭するような生活をしていたため、震災を目の当たりにしているのに自分は震災について何も研究できなかったということが非常に悔しくて、ずっと現地を視察したいという思いがありました。

今、被災地では「3・11伝承ロード構想」というのが進んでいて、被災した土地のアーカイブスや伝承館を結び、記憶を継承しながら、防災力を高めていこうという取り組みを産学官民が連携して行っています。帰宅困難地域には線量計がまだあって、田んぼや畑だったところは荒れ放題で人も車も通りません。仙台や岩手、陸前高田の方に行くと復興を感じられますが、やはりこの地域というのはグラデーションで、放射能の線量が高いところや低いところがあったり、帰れる人と帰れない人が分かれていたり、経済的に変えることができる人とできない人に分かれている。

原子力災害伝承館を見て感じたのは、人々の中の分断やネガティブな意識、葛藤、そういったものが含まれていないということです。そのような生々しいものが除去されて、未来都市みたいなイメージを強く表しているように見えました。それを見て、本当にクリエイティブなものとは何だろうなと考えました。過去に目を向けていくことこそ、その先につながると思うのですが、そういったものは表されていなかった。今でも放射能は地域を分断していますし、原発を誘致する時にも様々な問題や対立がありました。そのようなことに目を向けず、テクノロジーを前面に押しだしている。記憶されるものと記憶されないものを、どのように考えていけばよいのだろうかと感じました。

そのような気持ちで車を運転している時に、とても小さい公民館がたまたま見えたので中に入ってみることにしました。相馬市伝承鎮魂祈念館という施設でして、たくさんのアルバムや写真が展示してありました。いまだに砂の中からたくさんのアルバムが見つかるそうです。家族写真や恋人同士の写真もあって、生活の断面が生々しく残っているのです。「こんなにたくさんあるんですね」と聞いてみたら、「こんなにいっぱいあるんですよ」と言いながら下の棚を開けて見せてくれました。取りにこられないというか、取りにくる人がいない。係の人は泣きながら話してくれて、僕もグッと心にくるものがありました。この出来事は、アーカイブへのアプローチについて非常に深く考えさせてくれました。地域のメディアやアーカイブによって、何が表現され記憶されていくのかと同時に、何が忘却されてしまうのか。その視点は、今後みなさんが地域に関わっていく上で、すごく大事になるのではないかと感じています。

受講者の感想

 「準備されたものを見に行くだけの観光」という言葉が、特に印象に残った。私自身、SNSで事前に調べたものを見に行くだけの「受け身観光」をしていることに気づかされ、ぎくりとした。SNS が流行している今、私と同じような人も多いのではないかと思う。一方で、「2015年地域ブランド研究」の旅行動機調査によると、「地域に観光に行く目的は」という質問に対して、「現地の人と仲良くなりたい」「現地の人たちの暮らしぶりに触れたい」と回答した人が多くいた。そのような人が再訪してくれることで、観光人口が「関係人口」に変化していくのだと思う。私自身「受け身観光」から能動的に地域を探求する観光へとシフトしていきたいと思うし、私が活動する兵庫県龍野地区でも、観光客が住民と会話する機会を増やすことで地域やお店の歴史を紐解いていく、そんな楽しみがある地域を目指し、コンテンツづくりに取り組んでいきたい。(木元由香)

 何をアーカイブし、誰に伝えようとしているのか。地域を織りなす層のどこにフォーカスしてきたのか。そのために、誰と何をしてきたのか。そして、一人ひとりがどのように関わり、そのバトンが誰にどのように託されてここまで歩んできたのか。人の情報の受け取り方も形式化されつつある今、数値にならない(目に見えない)からこそ大切な部分が置き忘れられることのないように、多様な人と表現と技術を工夫して丁寧に伝えていきたい。もちろん、伝える内容それぞれを有益と感じる相手につなげる工夫も必要だ。そう考えると、自分一人では無理だと感じる。何を見て、どう考え、起こした行動が誰にどのように響いてきたのか。関わってくれている人にも改めて一緒に振り返ってもらい、意見を交わしながら、自らのメディアとしての立場を明らかにしていきたい。(まさきまゆこ)

ディレクターの感想

 行政広報やマスメディアによる地域イメージを批判的に捉えることで、例えば誰もが地域に愛着をもつことを重視したコミュニティ・メディアが生まれる。そうしてコミュニティ・メディアの有効性が確認されると、「誰もが地域に愛着をもつ」ための機会を提供する仕組みが様々に発案され、実践される。例えばデジタルストーリーテリングもそうした仕組みの一つだろう。そうすると、皆で「何かをやってみる」式の表現があふれることになり、時にそのことに個人的に嫌悪感を覚えることがある。その実践が「単にアイデアを形にしてみた」というものであることが少なくないからだ。

 こうした「何かをやってみる」式と対照的なものとしては、やはりアーティストの表現がある。それは、なぜそれをやるのかという動機の部分である。アイデアは似ていたり、誰でも考えるかもしれないことを、アーティストはhobbyでもjobでもなくwor kとして、つまりそうせざるを得ないという切実さを持って実践する。なぜこの人はこんなにこのことに真剣なのか、取り組み続けるのか、という部分。そこに圧倒的な作品のリアリティがある。

 同じように、相馬市伝承鎮魂記念館に掲示される持ち主不明の写真は、それを見つけた人がそうせざるを得ない行動として掲示している切実さが伝わってくる。あるいは、不慮の事故や事件に巻き込まれて大切な人を失った遺族が、署名や講演などを通して一生活動するという姿も、そうせざるを得ないものとして圧倒的な説得力をもって人々に伝わる。

 そうせざるを得ないものというのは、「忘却されたもの/放っておくと忘却されるであろうもの」を必然的に内包している。そこに記憶メディアとしての強度があると考えれば、CHISOUのアーカイブは、そうした個々の「切実さ」が問われているような気がする。

  • Update: 2020.10.04 Sun.
  • Editor: 西尾咲子(プログラムマネージャー)
  • Photographer: 茶本晃生

講座について

LECTURE OUTLINE

  • ラボメンバーコース

岡井崇之

地域のイメージは誰のものか

2020年10月25日(日) 14:00–16:00

奈良県立大学 コモンズ棟2F オープンスペース

メディア研究という切り口から社会の仕組みや問題を考察する岡井崇之さんをお招きし、観光政策地方創生のもとでつくられる地域イメージを解き明かすことで、地域で企画を実施する際に必要な批評的視点を学びます。

岡井崇之
メディア論/奈良県立大学教授

1974年京都府生まれ、大阪府在住。メディア研究をもとにメディア言説と社会変容/身体に関する諸問題の社会学的研究を行う。近著に『基礎ゼミ メディアスタディーズ』(共編著、世界思想社)『アーバンカルチャーズ──誘惑する都市文化、記憶する都市文化』(編著、晃洋書房)など