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小林瑠音「アートプロジェクトとは何か−歴史・論点・アーカイブ」

奈良県立大学 CHISOU lab.(オンライン配信あり)

小林瑠音「アートプロジェクトとは何か−歴史・論点・アーカイブ」

イギリスのコミュニティアートや文化政策が専門の小林瑠音さんをお招きし、アートプロジェクトの歴史や論点、アーカイブの観点からお話いただきました。アカデミックな理論に加えてアートプロジェクトの実践経験も豊富な小林さんのお話は、その全体像を把握するだけでなく、様々な問題点を炙りだす機会になりました。

ア ートプロジェクトの定義

 ア ートプロジェクトとは何でしょうか。『アートプロジェクト芸術と共創する社会』(熊倉純子監修、水曜社、二〇一四年)では︑アートプロジェクトは「一九九〇年代以降日本国内各地で展開されている、同時代の社会の中に入り、個別の社会的事象と関わりながら展開される共創的芸術活動」と定義されています。ここでの要点は「共に創る芸術」であること。アーティストがアトリエや美術館からまちに出て、人々や社会と関わりながらつくっていく活動です。ここで重要視されている要素が五つあります。一つ目は「制作のプロセスを重視し、それを積極的に開示していく」。二つ目が「プロジェクトが実施される場やその社会的状況に応じた活動を行う」。三つ目は「継続的に行われるものが多い」。一度限りで終わるのではなく、同じ場所で継続的に開催されるものを指します。四つ目は「関わる人々の属性や、その関わり方が多様」。アートプロジェクトでは、芸術関係者のみならず、住民や子どもなど様々な属性の人が関わっている。その関わり方は、ボランティアだったり、作品を一緒につくるパートナーだったり様々です。五つ目が「芸術以外の社会的分野に働きかける」。まちづくりや教育、医療などの領域に積極的に働きかけていくものがアートプロジェクトの重要な要素だとされています。

ソーシャリー・エンゲイジド・アートとアートプロジェクト

 世界的にはアートプロジェクトはソーシャリー・エンゲイジド・アート(以下、SEA)と同じ意味合いで語られることが多い。ただしSEAとアートプロジェクトは同じなのか、アートプロジェクトはSEAに内包されるのかは研究者やアーティスト、企画者によって意見が異なり、それらの厳密な定義は難しいです。

 そもそもSEAとは「アートワールドの閉じた領域から脱して、現実の世界に積極的に関わり、参加・対話のプロセスを通じて、人々の日常から既存の社会制度にいたるまで、何らかの『変革』をもたらすことを目的としたアーティストの活動を総称するものである」と、「SEAリサーチラボ」のウェブサイトで定義されており、先ほどのアートプロジェクトの定義とよく似ています。

 SEAの定義のポイントは、「対話のプロセス」です。最終的な作品のみならず、それが出来上がっていくプロセスを重視する。さらに、そこに参加する多様な人々が作品制作に関わる重要なファクターだということです。ただ、日本のアートプロジェクトとの大きな違いは、「何らかの『変革』をもたらすことを目的とした活動」という点で、SEAが志向する変革とは、もう少し政治的で、アクティビズム的な要素を指す傾向にあります。

 SEAリサーチラボの秋葉美知子さんによる図解では、SEAは三つの要素で説明されています。一つ目は「ソーシャル・チェンジ(社会変革)」、二つ目は「アート(芸術)」すなわちアーティストがつくる作品、三つ目が「インタラクション(相互作用)」。SEAはこれら三つが交わる真ん中の部分にあたります。ソーシャル・チェンジとアートだけが重なる部分はポリティカル・アートやコミュニティ・アート、ソーシャル・プラクティスという政治的なアート活動が該当する。ソーシャル・チェンジとインタラクションが重なる部分は、デモやスクウォッターなど純粋な社会運動を指します。アートとインタラクションが重なる部分は、主に鑑賞者の参加を重視する芸術作品を指しており、基本的にアートワールドの範疇に収まる形になります。

日本のアートプロジェクトの歴史(一九五〇年代〜一九六〇年代)

 アートプロジェクトはどのように発展してきたのでしょうか。美術史研究者の加治屋健司さんの論考を参照しながらアートプロジェクトの歴史を見ていきましょう。最初期のものとして参照されるのは、五〇年代から六〇年代の前衛芸術家による野外展示です。とりわけ戦後の前衛美術の代表的グループである具体美術協会が一九五六年に兵庫県の芦屋公園で行った「野外具体美術展」が先駆けとされています。展示作品の中には、島本昭三《この上を歩いてください》があり、公園の中に設置されたオブジェの上を自由に歩くものです。元永定正《水》は、公園の木の間に色水の入ったビニールが張り巡らされたインスタレーションです。同じ年に、福岡拠点の芸術家集団である九州派が、県庁の壁を使った展示をしました。このように一九五〇年代半ばは、作家がまちに出て作品やパフォーマンスを披露する動きが起こりました。かれらはアクティビズムやまちづくりのためのアートを念頭においていたわけではなく、あくまでも作品を美術館やギャラリーの外に展示したらどうなるのかという空間に対する興味に徹していました。

 一九六〇年代には行政主導の野外彫刻が始まります。その先駆けは「UBEビエンナーレ」で、一九六一年に開催された「宇部市野外彫刻展第一回」が前身です。「UBEビエンナーレ」は半世紀にわたり続いている貴重な事例です。当時の山口県宇部市は、大気汚染などが取り沙汰されており、ネガティブなイメージのある炭鉱のまちでした。そんなイメージを払拭し子育て世帯を呼び寄せたいという地方自治体の思いから、この野外彫刻展は始められました。行政が芸術をまちづくりに積極的に用いたという点で先駆的な事例です。同時期に、神戸の須磨離宮公園でも野外彫刻展が開催され、これら二つの事例が行政主導の野外彫刻展のパイオニアとして言及されます。さらに「UBEビエンナーレ」の注目すべき点は、入選作品を税金で買い取り、文化芸術遺産として恒久展示していること。そのような面からも、非常に先駆的な事例と言えます。

日本のアートプロジェクトの歴史(一九八〇年代)

 一九八〇年代になると、作家主導の野外展覧会が各地で増えていきます。代表的とされる「浜松野外美術展」では、海岸と砂丘を会場に、ビデオ作品やパフォーマンスなど様々な作品を展示し、費用はすべて作家が負担していました。山梨県北杜市の山間部で舞踏家の田中泯さんが発起人となり一九八八年から開催された「アートキャンプ白州」では、ビジュアルアートからパフォーミングアーツまで幅広いコンセプトでアートプロジェクトをしようということで始まりました。田中自身が白州で演劇仲間と自給自足の生活をしていた背景があります。このように、全国各地の海岸や山など様々な場所で若手作家自らが展示するという動きが広がり始めました。

 同時期に、おそらく日本初の国際野外芸術祭「牛窓国際芸術祭」が岡山県牛窓市で始まります。大都市ではなく地方都市の小さなまちで開催された最初期のケースです。オリーブ農園の経営者であった服部恒夫さんが総合プロデューサーとなり実施したプロジェクトです。一九八六年の報告書での服部さんの言葉を引用すると、「小規模であっても質の高い、現代美術の国際ビエンナーレ展を息長く、定期的に積み上げていくことをメイン・イベントとしてゆく。そのことを通して、牛窓という一拠点に根付いたかたちでの、地方における文化・芸術の実践と振興にたいする、具体的な提案を実現できると確信している」、「たんに見ることではなく、体験することなのだと会得すれば、『現代美術』も、幅の広い、自由で楽しいものだと分かると思います」とある。「牛窓国際芸術祭」がまちを全面に打ちだしていること、市民参加を重視していることが読みとれます。

 「牛窓国際芸術祭」で着目すべきは、ボランティアです。一九八五年に開催された第二回の芸術祭では、三十一名のボランティアを起用し、報告書にも名前が載っています。ボランティアを公式に起用し、芸術祭における重要な役割として位置づけたという意味で、非常に先駆的な事例です。

 これらの取り組みは、アートプロジェクトと似た要素がありますが、「アートプロジェクト」という言葉を意識的に使用したものではありませんでした。八〇年代にみられた多くの取り組みは作家主導であり、五年代の前衛作家と同様に、その主な動機は、野外空間に対する興味関心であったとされています。

日本のアートプロジェクトの歴史(一九九〇年代〜二〇〇〇年代)

 一九九〇年代になると初めて、「アートプロジェクト」を自称するケースが出てきます。その先駆的な事例の「ミュージアム・シティ・天神」は、一九九〇年に福岡県福岡市の天神地区を中心に始まりました。企業と行政、美術関係者の三者により開催された都市型アートプロジェクトで、アートプロジェクトという言葉を意識的に用いています。参加者が地図を手に銀行や駅ビルにある作品を巡るというウォークラリー形式である点で、今の芸術祭に非常に似ていると思います。

 二〇〇〇年に「越後妻有トリエンナーレ」が始まり、それ以降アートプロジェクトや芸術祭のブームが起こります。「越後妻有トリエンナーレ」は、主宰の北川フラムさんが数年前から地域に通って住民説明会を開いたり、自治体職員と会議を重ねたり、苦労の末に開催できたという経緯があるため、必ずしも二〇〇〇年に始まったとは言いきれません。越後妻有には、少子化により廃屋の増えた集落がたくさんあり、芸術大学の学生や若手のアーティストが改修して活動拠点や作品の展示会場にするという光景も見られます。また、地元のおじいさん、おばあさんが作品制作に参加したり、会場のスタッフに差し入れしたりなど、地域の人たちも積極的に関わっています。「こへび隊」と呼ばれるボランティアスタッフも活発です。

 このように「越後妻有トリエンナーレ」では、地元の人や地方自治体と協力し、企業メセナを通して企業がスポンサーに入り、ウォークラリー形式を採用し、ボランティアも活動している。つまり、アートプロジェクトの歴史的な要素がぎゅっと詰まっています。大勢の参加者や観覧者を生みだしたということで世界的にも注目を浴び、「現代アートでまちおこしができる」代表的な事例となりました。これを機に芸術祭という一種のフォーマットが出来上がったといえます。

 ア ートプロジェクトを巡る論点としてよく指摘されるのは、芸術の自律性と道具的価値の間での揺れ動きと、批評の不在、そして搾取の問題です。例えば、まちづくりや少子化対策のための道具としてアートはそんなに簡単に有用になっていいのか、質は何によって判断されるのかというような、問題提起がみられます。また、芸術に必要とされている批評が介在していないのではないか、それは芸術と言えるのかという指摘もあります。

答えのないアーカイブ

 アートプロジェクトを巡る論点として、批評が介在しづらいことが挙げられましたが、どこからどこまでが作品で、アーティストのオーソリティなのか、どこからどこまでが関わっている人たちによると言えるのか、その線引きが非常に難しい。そのような状況があるため、アートプロジェクトをアーカイブしていくことは非常に難しい。アートプロジェクトをどのようにアーカイブしていくかが今一番ホットな論点であると思います。

 アーカイブとは、記録や文書など資料の収集、整理、保存といった一連の活動です。作品が残らない形態の表現やプロセス重視のプロジェクトが増えてきたことから、現代アートの局面でも重要視されるようになってきました。ここでは、「種類」「性格」「目的」が明確に位置づけられることが必要です。特にアートプロジェクトでアーカイブに困るのが、作家のスケッチや現場調査をどのように残すかです。現場調査とは、村や都市を見て回り作品を置く場所を決めるプロセスを指します。また、手紙やメール、企画書、議事録、インタビュー、生原稿、レシートなどの膨大なやりとりをどうアーカイブするのかも問題です。これまでは、美術館が作品を保存、収集、管理することでアーカイブできていましたが、アートプロジェクトのようにプロセスに多様な人が関わる状態をどう処理するのかが非常に難しい。アーティストの川俣正さんは、「アート&ソサエティ研究センター」と「東京アート ポイント計画」(アーツカウンシル東京)主催の「地域・社会に関わるアートアーカイブ・プロジェクト」レクチャーの中で、「記録は、プロジェクトを展開していくためのひとつのツール」であり、「記録しても記録し足りないように、どれだけ集めようと、本物とは違う」、「すべてのものを集めて、すべてのものなんて集められるわけないと知っていて、なおかつ集めなくてはいけない」と述べています。
 川俣正さんは、自分の作品自体を「プロジェクト」として制作してきたパイオニアの一人ですが、彼にとってもアーカイブは難しいけどやらなければならないことで、やればやるほど本物とは違ってくる難しさがある。アーカイブはやり始めるときりがなく、集中しすぎると作品や現場がおろそかになるというジレンマがあります。

国内のアーカイブ事情(アーツカウンシル東京とコネクタテレビ)

 国内外のいくつかのアーカイブを紹介します。アートプロジェクトに関するアーカイブを近年積極的に進めておられるのが、前述の、アート&ソサエティ研究センターと(東京都、アーツカウンシル東京)です。東京はオリンピック関連で潤沢な予算があるので、報告書の紙質やデザインも凝っているという意味でもアートプロジェクトのアーカイブ化を牽引している。のウェブサイトには、全国各地で開催された芸術祭の報告書や記録集が掲載されており、例えば、企画段階の「どういう風にどこに作品を設置しよう、その時の什器はどうしよう」というミーティングのメモが集められています。また、アートプロジェクトがどんな時系列で進んできたのかをビジュアル化したタイムラインも載っている。ボランティア募集やミーティングの日程など、出来事を事細かに示すのも、アーカイブでよく使われている手法です。

 加えて、様々な映像やインタビューがアーカイブされている日本のメディアとしてご紹介したいのが「コネクタテレビ」です。大阪のアートNPOであるrecip(地域文化に関する情報とプロジェクト)が制作しています。アーティストのインタビューやアートプロジェクト観覧レポートなど多様な映像資料が集められています。

国外のアーカイブ事情(イギリス)

 最後に私の研究分野であるイギリスのコミュニティ・アート・ムーブメントから事例を紹介します。まず、七〇年代に行われていた「タワーハムレット・アートプロジェクト」。このプロジェクトは、ロンドン、イーストエンドのタワーハムレット地区で行われていました。今でこそジェントリフィケーションでお洒落なまちになっていますが、当時はスラム街と言われる貧困地区でした。そのプロジェクトのパンフレットが残っているのですが、そこに載っている絵を見ると、アートを形容する絵が高い位置に描かれていて、人々がそれを見上げています。これは、既存のギャラリーや美術館にあるアートのシステムを批判しているものです。このようなパンフレットの他に、ニュースレターや地元の新聞記事もたくさん残っています。年次報告書には、事業の年間予算とその支援先が事細かに記載されています。タワーハムレット地区は移民地区でもあって、パキスタン系やアイリッシュ系の住民が多く暮らすところですが、地元住民がアートプロジェクトについて書いているニュースレターも残っています。

 次に、「コミュニティ・ビデオ・アーカイブ」というウェブサイトについてですが、このサイトには七〇年代から八〇年代に実施されていたアートプロジェクトの当時の映像が集約されています。例えば、同じく七〇年代のタワーハムレット地区で展開していた「ベースメントプロジェクト」は、タウンホールの地下を行政から無償で借りうけ、事務局にして実施していたプロジェクトですが、当時の様子を記録した8ミリフィルムが残っていたりします。

 このような四十年前のロンドンの事例を見ていると、手紙や報告書、日々の事務局の様子まで、残しておいてどうするのかという資料もたくさんありますが、今の私たちがそれらを見た時に同じような問題意識を発見することもあるわけです。そのような意味では、アーカイブの必要性というものが、コミュニティアートの事例からも見てとれると思います。ただ、やはりすべてを残すのは難しいので、それらを編集するアーカイバーやアーカイブスタッフという専門職がより重要になってくると思います。

受講者の声

 多くのアートプロジェクトが行政からの助成を受けている現状を考えると、その記録は広く公開されるべきだと思う。プロジェクトの意義や地域におけるその重要性を市⺠に伝えつつ、将来の研究に貢献することも考えながら、つまびらかにしていくこと。今回の講義で取り上げられていたイギリスでの事例は、その点でたいへん参考になると感じた。(米田陣)

 人の暮らしは、いくつもの芸や美が織りなしている。農家や漁師、教師、会社員など、ありとあらゆる生業の中にも、芸や美が見える。美術教育を受け、創作を生業とするなかで工夫してきたのは、物事を見る目と自分以外の誰かにそれを伝える術である。さまざまな視点で物事を捉えることは、何かを計画する際のコミュニケーションでも非常に役立つと感じている。その術を用いて、制作過程から考え、記録することで地域と笑えたら……。今自分がいるところと、これから目指すところを見直すヒントがいっぱいのレクチャーだった。(まさきまゆこ)

 私は今まで、アートとは芸術を専門にしている人がつくり上げる作品のことだと思っていた。しかし、アートプロジェクトは制作物よりもその過程に重点を置き、様々な属性の人々が関わることで、芸術以外の分野に働きかけていくものであるとわかった。アートを用いて現実の社会問題を世の中に訴えかける「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」には、対話やデモを参加型アートとして実践するものがある。芸術を専攻していない自分のような人や、社会問題に関心の薄い人でも興味をもって参加できそうだが、そのアートプロジェクトがどんな社会問題に対して何を訴えかけるものなのか、その意図は何なのか、社会に与える影響力はどれくらいあるのかを考えた上で参加しなければ、単なる芸術作品の材料になってしまうだけだと思った。そうならないためにも、プロジェクト内容についてよく調べ、そこで得たことをそれぞれがアーカイブしていく必要がある。(石川理香子)

ディレクターの声

 アートプロジェクトは、現代アートが常にそうであるように、これまでの芸術のあり方に異議を唱える「反芸術」の立場から実践されてきた表現形態の一つである。やがて、その手法はアートマーケットやアートワールドからの「逸脱」を目的として、人間社会や自然環境の中で表現行為を行う一つのジャンルのようになった。実践者が目標にしてきたのは、人々の習慣や常識、制度化された知などを「内破」して、これまでのいずれの分野の評価軸からも逸脱した「名づけ得ぬもの」を生みだすことではなかったか。しかし実際には、実践が写真や映像などのメディアによって作品化(表象)されると、それが新しいアートや新しい音楽、新しいファッション、新しい〇〇……、として既存分野に回収されてしまう。そして、アートプロジェクトは、そのように「多様な可能性」に開かれたものという点が評価されることになる。

 一方で、2000年代以降、バブル経済の崩壊による長い経済不況と、少子高齢化・人口減少で衰退した地方都市に再び活気を与えることを目的に、ミュージアムやホワイトキューブではない場所を積極的に活用して行われる大小の芸術祭が日本国内で多数実施されるようになった。この場合、主催者の多くは地方自治体であり、アート作品の質だけではなく、地域における経済効果や賑わい創出が評価の基準になることが多い。そこでは、アートプロジェクトの「普及」版とでもいうような表現が目立っている。

 「反芸術」としての価値の期限が過ぎてしまったように思える今、考えるべき重要な課題は、実践者らが「名づけ得ぬもの」を目指して実践してきたアートプロジェクトの手法や考え方を、「多様な可能性」や「普及」として語るのではなく、「名づけ得ぬもの」として語る理論的枠組みを構築し、それが実際に社会の中でどのように機能し、どのような社会的価値をもっているのかを明らかにすることではないだろうか。

  • Update: 2020.11.14 Sat.

REFERENCES

講座について

LECTURE OUTLINE

  • ラボメンバーコース
  • ゲストコース

小林瑠音

アートプロジェクトとは何か──歴史・論点・アーカイブ

2020年11月14日(土) 14:00–16:00

CHISOU lab.

英国の文化政策やコミュニティアート史の分野において研究を行う小林瑠音さんをお招きし、国内外のアートプロジェクトの歴史や、アートプロジェクトと関わりの深いキーワード・論点を整理しながらアートプロジェクトのアーカイブのあり方について考えます。

小林瑠音
文化政策/奈良県立大学客員准教授

1982年京都府生まれ、兵庫県在住。英国の文化政策、コミュニティアート史の分野において研究を行う。いわゆる「アート」の存在が前提とされていない環境においてアートとコミュニティが遭遇していく、そのプロセスと社会的インパクトに関心をもつ。