REPORTS
- レクチャー
「明日香村の風土と景観」
井原縁
2021年9月16日(木)
CHISOU lab.
Editor: 西尾咲子(プログラムマネージャー)
REPORTS
2021年9月16日(木)
CHISOU lab.
Editor: 西尾咲子(プログラムマネージャー)
造園学が専門で明日香村の景観委員会委員も務めている井原縁さんを講師にお招きし、奈良県明日香村でレクチャーとまち歩きを実施しました。前半のレクチャーでは、ランドスケープの観点から明日香村の歴史的風土の特徴や、国営飛鳥歴史公園を始めとする重要な場所について、詳細なお話を伺いました。後半のまち歩きでは、明日香村の歴史を語る上で外せない飛鳥川を辿り、明日香村の歴史に思いを馳せながら、様々な視点からまちを読み解いていきました。
CONTENTS
私たちの眼前に広がる風景の裏側に積み重なってきた時間と空間の層を読み解いていくことで、今後のプロジェクトに活かしていただければと思っています。私の専門は造園学で、楽しみや憩い、美しさ、あるいはその地域らしさといった観点から風景をつくりだす実学です。その立場から、明日香村の景観委員会の委員を務めております。考古学や建築学、造園学の専門家と地元住民が、例えば、大規模な建物や工作物をつくる計画が持ちあがった時などに、明日香村の景観保全のあり方を具体的に議論する場です。
まず、物理的な景観から見ていきましょう。明日香村は奈良盆地の南東部に位置し、南部に連なる約600メートル前後の山から北に向かって、飛鳥川が村の中央を真っ直ぐ流れています。聖なる川としても有名ですね。その近くに高取川が流れ、この流域一帯の平野部を山や丘が取り囲む小盆地的な空間になっているため、全体として囲繞性の高い空間になっています。
「明日香」と「飛鳥」という二つの字がありますが、明日香は基本的に村の名称を指す時に使われ、飛鳥は村も含めたもう少し広い地域を指します。村を中心とした飛鳥地域は、我が国の律令国家体制が形成された飛鳥時代において、政治や文化の中心地でした。今ではゆっくりと時間が流れるのどかな場所ですが、飛鳥時代には非常に賑わっていました。
当時、政治や文化の中心として賑わっていた証拠が、物理的に土地に残っています。天皇の住まいであった宮殿や寺の跡、古墳など、文字通り基層の部分が残っており、それらを含めた埋蔵文化財が随所に存在しています。ちなみに飛鳥京跡は、複数の宮がつくられた遺跡群を総称する言葉で、一般的に飛鳥川の右岸のエリアを指しており、明確に区切られた都市があるわけではありません。
人が住まう場所には、建物の他に憩いの場が必ずあります。愛でたり、人を招いてもてなしたりするための庭がつくられていて、土地を削って池を掘ったりしてつくるため、その痕跡が残ります。時の流れと共に層が重なり、様々な土地利用に変換されていきますが、最もベースの土地利用のあり様は残っており、それぞれの宮にあった庭の跡には明らかにそれとわかる石があったりします。例えば、下野小遺跡で発掘された庭園遺構には、正方形の方池があります。現在、私たちが一般的に庭園で見るのは、池の汀の形が曲がっている曲池ですが、不思議なことに飛鳥時代の庭園遺構には方池が多い。池の護岸には石が積み重ねられており、水の流れがあったことを示す溝も発掘されています。
飛鳥は面白い石造物がたくさんある場所として有名ですが、中でも仏教の想像上の山で、仏教世界の中心をなすと言われる須弥山石があります。単なる石造物ではなく、噴水機能が備わっている。このように石を加工して造形し、さらに重力に逆らって水を外に噴き出させる技術は、当時にしては考えられないほど高度です。その結果が形として残り、土の下に埋もれていて、発掘によって出てきたわけです。
飛鳥時代は、大陸との交流が非常に盛んだった時代として知られています。とりわけ仏教は中国や朝鮮半島を経て大陸から日本に伝わってきましたが、飛鳥の庭園遺構についても当時の大陸の影響を直接受けていたことがわかっています。正方形の方池の起源も、シルクロードを伝って古代インドからと言われていますが、直接的には当時盛んに交流のあった百済を経て日本に伝来したと考えられています。百済の色々な宮や寺の跡で同様の方池が発掘されています。
飛鳥時代は長く続いたため、交流する国の事情によって途中で様々に変わりました。当初、朝鮮半島は百済を含めた3国に分かれていましたが、新羅に統一された結果、今度は新羅との交流が盛んになります。飛鳥川の右岸の河岸段丘で発掘された飛鳥京跡苑池遺構は、石造の噴水のある本格的な池を持つ庭ですが、方池と曲池の中間のような形をしています。様々な情報を勘案したところ、このような庭園の形が当時広がっていて、まさにこの時代の新羅の影響を受けていたと考えられています。
日本の古代国家がどのように築かれてきたのかということと同時に、当時は中国大陸や朝鮮半島と非常に密な交流をして色々なものが生みだされていたということ。そのような古代の飛鳥の人々による活動の痕跡が、物や形として土地の基層に残っている。歴史文化遺産として土地の下にあり続けていることが、明日香村の現在の景観の基層になっています。
庭園遺構のみならず建築遺構や様々な工作物の遺構も確認することができます。これらの遺構は土地に刻み込まれた人間活動の痕跡でして、それらの一部は現在の風景において地上で視認できるものもあります。例えば、石舞台は本来であれば墳丘があったはずですが、墳丘がなくなり石室が露出している。けれども、多くは「埋蔵文化財」と呼ばれるように、地下に眠っています。見えないけれども、長年にわたる考古学的な発掘調査の結果、先述したような様々なことが次々に明らかになっています。
発掘調査で明らかになったものと現在の土地利用のあり方とをどのように調和させるかというのが、明日香村の大きな課題です。基本的な方針は、大きな復元整備をしないということでして、地上にどのような遺構があったのかを部分的に展示する。例えば、川原寺跡は一部だけ平面表示をしたり、部分的に展示したり、さりげなく展示しています。あるいは、説明板を置くだけにして、地面の下に埋もれたままにするなど、大きな手を加えることなく調和させています。
ですから、見えないものがすごく多いのですが、その中で一部だけ見えているものとして、古墳や寺、神社の建物などがあります。今ある建物は古代のものがそのまま残っているわけではなく、つくり替えられたり、場所自体も移動したりしています。例えば、今年度の「地奏」プロジェクトを実施する予定の飛鳥坐神社も、もともとは甘樫丘の川向かいにある雷丘にあったという説があります。明日香では神の宿る場所として、甘樫丘や雷丘など複数の説があります。一応その場所が見てとれるところもあるのですが、見えないものがすごく多い。見えないけれども確実にそこにあって、何か独特の空気を漂わせており、その成果が色々な形で展示されているというのが、明日香村全体に共通しています。
数多くの貴重な歴史文化遺産が基層にあり、それらが集落や農地、山林などと一体となって独特の美しい歴史的風土を形成している。『万葉集』で歌われた飛鳥の姿が、今の明日香村の山や川を眺めていると何となく思い起こせる。奇跡的なことです。普通なら人間の暮らしは時間の流れと共に利便性の高い方へ土地をどんどん変えていきますが、明日香村は土地利用の改変の仕方が非常に緩やかです。
このような飛鳥独特の風土性を表すキーワードが「歴史的風土」ですが、この歴史的風土と、それが形となって現れている景観は、各種法制度によって維持されてきました。もちろん法制度で継承せずとも受け継がれてきましたが、戦後の高度経済成長期に桁違いのスピードとスケールで形の変わった農村や都市計画が全国的に非常に多かった。明日香村は特に強い法制度を敷くことにより、継承されてきた固有の風土や景観を守る方向へ舵を切りました。それが今に至る明日香村の歴史的風土を守る基盤となっています。
甘樫丘からの風景は眺めが素晴らしく、大和三山が見えますが、特に注目していただきたいのが、西の地平線の方です。橿原がある方角ですが、建物の集合体が見えます。放っておくと土地開発の波が押し寄せてくるはずですが、人の意思によって明らかに食い止められており、田園が広がって、まとまりごとに集落が形成されています。
実は明日香村の全域には一定の規制がかかっているのですが、特に注目したいのが、第1種歴史的風土保存地区と第2種歴史的風土保存地区というもの。歴史的風土とは、歴史的な建築物や工作物、つまり人間の生みだした人工物とそれを取り巻く自然環境が一体となって醸しだしている土地の趣を示す言葉です。高度経済成長期に歴史的風土を守る手を何か打つ必要があるという動きが持ち上がるなかで古都保存法が制定されました。古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法です。これによって奈良公園の界隈も歴史的風土の名のもとに守られています。
明日香村においては、特定の場所を歴史的風土として守ろうというのではなく、村全域に対して適用したのが特異なポイントです。古都保存法には非常に厳しい歴史的風土特別保存地区と、もう少し緩い風土保存区域がありますが、歴史的風土特別保存地区に該当するものが明日香村全域にわたって適用されています。その中でもさらに強いものを第1種と第2種に分ける、明日香村独自の方針をとっています。これによって、宅地を造成するとか、新築するとか、今の状況を変えるような何らかの行為をするためには、全てが禁止というわけではなく、そのあり方を一度検討するというワンクッションを置くシステムが適用されています。その他に風致地区や景観計画も村全域を対象にしており、色々な制度が幾重にも折り重なって、今の明日香村の歴史的風土を維持し、未来に向けて継承しているのです。
また、明日香村の特殊性として、歴史的風土を守ることと、住民生活の安定向上を二本柱にしていることが挙げられます。古都保存法の規制の対象となっている他の地域とは異なり、明日香村の場合は、住民の日常生活の場が同時に文化財の保存上のかけがえのない地域であることに特色がある。土地全体に古代飛鳥のあり様を示す貴重な歴史文化遺産が埋もれていて、その一部が地上に現れており、その上に、自然に即した農業を中心とする住民の生活の営みが積み重なって歴史的風土を生みだしています。だから、歴史を大事にする地区と暮らすための地区というように分けられておらず、常に一体性があるのが明日香村の大きな特徴です。
明日香村には全部で国営飛鳥歴史公園が5箇所あります。公園というとスポーツや遊びのための公共性の高いレクリエーション空間だと考えますが、国営飛鳥歴史公園は明日香村の風土や景観の特殊性を反映した特別な意味を持っていて、土地開発の波から歴史的風土を守る手段の一つとして生みだされました。まずは飛鳥川沿いに立地している甘樫丘、石舞台、祝戸の三つが認定されました。ものすごく大事なところを囲い込んで、国が責任をもって管理する都市公園にすると決めたのです。
最初に公園に認定された場所の一つが甘樫丘、もう一つが石舞台です。石舞台は非常に大きな石室でして、方形の古墳です。墳丘の盛土が残っておらず、本来は墳丘にある石室が露出しているという独特の形象です。江戸時代にはすでにこういう姿だったという記述が残っています。天井石の部分が平らになっていて、まるで舞台のように見えるので、石舞台という愛称で呼ばれています。
この国営飛鳥歴史公園のポイントは、いかにも「公園」としての整備をしていないところ。先述の通り、守るために生みだされたものなので、いずれも現存の地形と植生を尊重しています。普通なら公園の範囲を示すために生垣や柵、塀で区切りますが、そのようなものを設けていない。また、施設にはできる限り自然素材を使用し、周辺の景観と調和して一体化するように最大限の配慮がなされています。日本のランドスケープにおける代表的な風景づくりの設計事務所が手がけているものですが、自分の存在感を強く表さない、引きのデザインで構成されているという点で高く評価されています。
三つ目の祝戸は、一般観光客にはあまり知られていない場所ですが、すごく大事な地区です。最初に三つの地区が選ばれた時、甘樫丘で重要なのはそこから眺める展望と散策。国指定の特別史跡である石舞台は、史跡の鑑賞。祝戸は展望と宿泊研修施設を整備することが構想されました。祝戸地区は、南の方に山が連なっていく入り口部分になります。この先に広がる奥飛鳥は飛鳥川の上流域から源流の辺りでして、古代からの土地利用のあり方、すなわち住民の暮らしや生業のあり方が形としてかなり残っており、伝統的な神事も多く伝えられている場所です。明日香は何度も足を運んでじっくり学ぶことによって、魅力がどんどん体に染み込んできて、見え方がどんどん変わってくる場所です。そのための拠点となる施設が必要だということで、明日香らしさを体感できる祝戸に宿泊研修施設を置くことが決まり、祝戸荘が開設されました。明日香村の歴史的風土や景観の保存活動を行なっていた古都飛鳥保存財団が長年にわたって管理運営をしてきましたが、残念ながら立ち行かなくなり、どのように継承していくかを皆で議論しているところです。
奥飛鳥の地は2011年に国の重要文化的景観に選定されました。重要文化的景観は、地域固有の風土と生活や生業が織りなしている特徴的な景観を価値づけ、それを維持継承していく自治体に与えられるものです。この辺りは見事な棚田が広がり、昔から水の利用が延々と続いており、古くは中世に遡る集落のまとまりが現在まで継承されている。『万葉集』に飛鳥川の源流の姿が謳われて、歌の情景と最もリンクする場所でもあります。
ちょうど明日香の歴史的風土保存や景観保存が多く議論されている1970年代に、彩り鮮やかな壁画が発見されて大評判となった高松塚古墳を中心とする周辺地区が、四つ目の国営飛鳥歴史公園として追加されました。ゴミ箱が自然石の中に設置されたり、周辺に広がる農村景観との境目がわからないような姿だったりして、周囲の環境と非常に調和する形でつくられています。
また、1983年にはキトラ古墳という一大発見があり、明日香村では現在進行形でまだまだ発見が続いていますが、国営飛鳥歴史公園は現在5地区に広がっています。眼前の風景の背景には、最も基層に歴史文化遺産があり、それと調和する住民の日常の暮らしや生業に支えられてきた土地利用のあり方がある。そして、それらが織りなす一体的な趣を必死で守ってきた民間を含む人々の思いがあり、今ここの場所に価値を見出して色々な形で伝えようとしている人の思いが重なっています。その代表的な存在が、飛鳥里山クラブという団体です。国営公園は行政だけで運営しているのではなく、民間のボランティア団体の協力を得て運営されています。長年にわたる活動の結果、飛鳥里山クラブは数百人ほどの組織体になっていますが、四季を通じて明日香の魅力を人々に伝えるための様々な活動をしています。
最後に明日香村の特徴としてお伝えしたいのが、一年を通じた四季の魅力という時間スケールです。他の季節にもぜひ明日香村に来ていただきたい。飛鳥時代に刻まれたこの場所のあり様が最も明らかになるのは冬です。私の思いだけではなく、この地に親しんだ研究者らもまたそのように言っています。山沿いの凍てつくような寒さの中、葉も落ちて、目を奪われるような彩りが全部なくなるからこそ、最もベースにある土地のあり様がはっきり見えてきます。歴史的な時間スケール、四季の時間スケール、そして一日を通じた時間スケールなど、色々な時間軸と空間変化を見ていくことが、飛鳥らしさを考える上で重要な視点です。これからプロジェクトの構想を練っていく時に、このような飛鳥らしさを意識してみてください。
この後のまち歩きでは、上流に向かって飛鳥川を歩いていこうと思います。まずは石舞台古墳に寄ってから、祝戸地区、さらに奥飛鳥へと歩を進めて、地域住民の土地利用がよくわかるエリアを見つつ、山に向かって真っ直ぐ登っていきながら、明日香の魅力を体感してみましょう。
水の流れを頼りに奥飛鳥の手前の稲渕地区を少し散策したが、ここで田淵に流れていた水の音が、個人的に、他の水音よりもとても穏やかで心地良く感じた。井原先生がレクチャーで仰っていた、明日香の歴史的風土と重なる生業を人々がなぜ守りたいと思ったのか、身をもって実感した。人間が知らず知らずのうちに壊してしまったものの儚さとその過失の重大さに気づき(昨年度の宇陀の時よりも強く感じた)、奥飛鳥は井原先生のお話が身に沁みる空間だった。石舞台古墳公園も興味深かった。石舞台古墳の周りには、何もない原っぱがただ広がっているように見えるが、実はあえて自然な景観を演出するという人工的な工夫がかなりなされていて、その公園設計技術に感嘆した。(奥山祐)
自然と人間の営みによって積み重ねられてきた明日香村の景観について学んだ。通常、時代の流れと共に土地は利便性の良い方向へと改変される。明日香村は「明日香法」と呼ばれる法律を整えるなどして土地改変のスピードを遅め、景観を守ってきた。そのため、今でも『万葉集』に詠まれた景色を見ることができる。ただ、遺跡や文化財保存上かけがえのない土地であると同時に、ここは住民の日常生活の場でもある。歴史的風土と住民生活の健全性、両方を同じ重みで捉え村の未来を考えた政策を実施し続けてきたからこそ、明日香村には独特の美しい歴史的風土が形成されている。そのことに私は驚いた。井原先生が仰っていた「景観は風土の表れである」「歴史的風土は、人間が生みだした人工物と自然が一体となったものであり、人の営みが重なり続けることから生まれる」という考え方がプロジェクトを進めるにあたって重要なキーになると感じた。(中川なつみ)
LECTURE OUTLINE
井原縁
2021年9月16日(木) 09:00–17:00
環境デザイン学が専門の井原縁さんに、明日香村でレクチャーとまち歩きをしていただきました。前半のレクチャーでは、ランドスケープの観点から明日香村の特徴について学びました。後半のまち歩きでは、明日香村を語る上で外せない飛鳥川を辿り、明日香村の歴史に思いを馳せながら、様々な視点からまちを捉えていくことを試みました。
1975年香川県生まれ、奈良県在住。農学博士。造園学を専攻し、史跡・名勝など文化遺産を基盤とした風景づくりに関する調査研究と実践を重ねている。主な著書に『47都道府県・公園/庭園百科』(共著、丸善出版株式会社)、『みやこの近代』(共著、思文閣出版)など。