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「“つながり”について考える」
梅田直美

2021年10月16日(土)

奈良県立大学 CHISOU lab.(オンライン配信あり)

Editor: 西尾咲子(プログラムマネージャー)

「“つながり”について考える」<br>梅田直美

孤立や虐待など関係性の諸問題とそれらを巡る社会的活動について研究してきた梅田直美さんから、つながりをテーマにお話を伺いました。前半は、古今東西の社会理論を参照し、近代社会でつながりがいかに変容してきたかについて。後半は、ケアなど生活者自らの経験を軸に起業したソーシャルビジネスによって、ユニークなつながりが生みだされている事例を紹介いただき、アートプロジェクトや共有空間と大いに共通する論点について学びました。

時代や文化によって
孤立の捉え方は異なる

今の日本では孤立が問題視されていますが、海外の思想や活動に目を向けてみると、孤立が問題だとはさほど言われていません。例えば、西洋の場合は神様との対話などで自分の存在が肯定されるので、人間の孤立が問題視されない傾向にあります。日本ではなぜつながりがそれほど重視されるのでしょうか。

歴史を遡ってみると、戦前は隣組や町内会が全国的に組織されていました。村や家制度もあり、つながりが制度化されていた。戦後になると、民主化や個の解放など昔の束縛から解き放たれ、個人が自由になることが良いと謳われるようになり、孤立はさほど問題視されていませんでした。このような歴史的な積み重ねの中で、私たちは孤立を問題として捉えるように変化してきたことがわかります。

社会構築主義アプローチとは

社会学の方法論の一つに社会構築主義アプローチがあります。例えば、方法論的構築主義の立場では、何か物事について考える時、私たちが当たり前に使っている概念や言葉の意味を一旦括弧に入れ、「社会的に構築されているもの」として捉えます。家族を例に挙げるなら、現代の日本社会で家族と思われているものは、いつ頃から、どのように形成されてきたのか。時代や場所が変わると家族の概念は当然変わってくる。子どもや孤立などの概念についても同じことが言えます。

制度のエスノグラフィーはドロシー・スミスによって提唱された研究方法で、大雑把に言うと、社会構築主義的なアクションリサーチです。人々の日常の経験における困惑や葛藤を出発点とし、その困惑や経験がどこから来ているのかを、歴史的かつ社会的に構築された認識枠組みと日常の経験とのつながりをマッピングすることにより、研究者と対象者との協同作業で解明していきます。

社会システムにより
立ち現れる地域の課題

地域の人が直面する課題として、少子高齢や担い手不足、住民の孤立化、ケアやジェンダーなど、住民と話していると同じようなキーワードが出てきます。地域は空間ごとに特性がありルーツも違うのに共通する課題が出てくるのは、社会システムの問題があるからです。近代以降の社会で形成されてきた制度や認識枠組みと関わる歴史的で重層的な課題だということです。私の研究では、今ここの課題を歴史的、重層的な視点で読み解いた上で、目の前のものにアプローチしていく手法で行ってきました。

社会集団の類型論
──ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ

産業革命や資本主義、都市化など様々なキーワードで語られる近代社会になってから、人間関係が変容してきたと常々言われてきました。近代ではフィールドワークが発展してきたため、近代社会におけるつながりの理論は単なる机上の理論ではなく、実世界をある程度反映しています。社会集団の類型論では、F.テンニースによるゲマインシャフトとゲゼルシャフトという概念があり、近代化に伴って社会集団はゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと移行していくという図式が唱えられました。

ゲマインシャフトは本来的で自然的な共同社会を指し、ゲゼルシャフトは作為的で物象的な利益社会を言います。ゲマインシャフトは村や家や町など本質意志に基づく有機的結合体で、ゲゼルシャフトは大都市や企業など選択意志による機械的結合体。どんどんゲゼルシャフトが増えていくという理論でした。

社会学や心理学などの様々な研究者や思想家が似たような図式を論じています。その中でコミュニティという概念を提唱したR.M.マッキーバーは、コミュニティとアソシエーションを区別しました。村や町などのコミュニティは、同じ場所に住み、同じ社会的特徴を持つ自然発生的集団で、我々意識と役割意識、依存意識の三つを要件として細かく定義しています。それに対して学校や営利組織などのアソシエーションは、共通の関心や目的などで集まった機能的集団です。

近代化に伴う社会関係の変容に関する議論
──大衆社会論、アーバニズム論、
コミュニティ論

1960年代に大衆社会論が日本で流行りました。近代化に伴い、均質的な「大衆」が社会に影響力を持つことになったと捉える理論です。人々が砂粒のようにバラバラに原子化して連帯しなくなり、権力者がつながりを持たない個人を簡単に操作できるようになる。自由になったがゆえにそれに耐えきれなくなり、大きな力を持ったものに服従してしまいたくなるというわけです。

同時にシカゴ学派のアーバニズム論が広がっていきます。戦後の日本でもアーバニズム論はコミュニティの概念を広めるベースになりました。都市化により都市的生活様式が広がりましたが、第一次接触が減って機械的で間接的な第二次接触が増えていく。このような実態をフィールドワークにより明らかにしていきました。例えば、非行少年が非行に至った背景にはコミュニティの崩壊があるというような感じ。これに対してコミュニティ存続論という反論もありました。都市では皆が孤立していると言われているが、一人暮らしの労働者が集まって住んでいるだけ。ライフサイクル的にコミュニティが見えにくいだけで、郊外などの家族が集まって住んでいる地域ではコミュニティは全く失われていないと論じられました。

コミュニティ喪失論や存続論に対して、B.ウェルマンが提唱したのがコミュニティ解放論です。親族や近隣に代わる「友人関係」による親密な絆のネットワークが、空間的制約から解放された近接性なきコミュニティの形で広がっている。SNSが広がった今の時代では当たり前ですが、当時では驚くべき画期的な理論でした。集団としてコミュニティを語るのは時代遅れで、これからは個人のネットワークとして人々のつながりを捉える必要があるという流れで、社会的ネットワーク論が台頭します。日本では高度経済成長が終わる頃です。経済成長期には、都市開発が進んで、頑張れば頑張るほど豊かになれると思われていましたが、そうした時代が終わりに差しかかり、「ポストモダン」や「近代の終焉」が徐々に言われ始めました。

後期近代におけるオルタナティブな理論
──社会的ネットワーク論、親密圏と公共圏

今でもコミュニティという言葉はよく使われますが、つながりを捉える社会学の理論では、少し昔の懐かしいイメージです。現在は社会的ネットワーク論や、後述する親密圏、公共圏の話題が主になっている。そこでは個人が結節点になり、つながりがいかに広がっていくのかという、個人が主体の議論です。そのつながりが強いか弱いか、解放的か閉鎖的かについて分析する視点が出てきます。有名なネットワーク論の研究に、M.グラノヴェッターの「弱い紐帯の強み」という論文がありますが、個人の発展のためには、強い紐帯より弱い紐帯の方が有効であると示した、非常に面白い内容です。

もう一つ、後期近代に最適な考え方として、親密圏と公共圏があります。公共圏はハーバーマスの市民的公共圏という言葉がベースになっており、家族などの私的なものと、国家などの公的なものとの間にあり、市民が自律的に出会い討論できる万人に開かれた社会的領域・空間を指します。いくら自由と言っても何らかのルールを決めたり統制したりする必要があるため、人々が社会的な統制を受ける領域・空間とも捉えられます。

公共圏の対概念として捉えられる領域・空間が、親密圏です。齋藤純一によると、具体的な他者との間の、関心と配慮によって結びつく持続的な関係性を意味します。親密圏と公共圏というふうに分けること自体が、近代の一つの特徴です。近代は私的な領域と公的な領域が分断化した時代で、そもそも共有空間をつくろうとする背景には、共有されていない空間が相当増えてきたという前提があります。

公共圏はすごく良いイメージで、親密圏は内にこもったようなイメージ。そんな傾向が研究にもありましたが、2000年代以降、日本だけでなく海外でも親密圏が再評価されてきている。例えば、先ほど述べた齋藤純一は次のように論じています。公共圏では、自律した強い個人が主体的・自律的に、市民として自分の意見や技術を持って参加することが前提とされてきました。しかし、現実には、その市民になることができない、見捨てられたような弱い人々がたくさん存在している。そのような人々が、自分の存在を肯定され、公共圏に現れる気力を回復させる場として、親密圏は重要な意義を持つわけです。これは後述するソーシャルビジネスの研究の理論的背景にもなっています。

人生の様々な選択やリスクが
個人に委ねられる時代

後期近代社会論における重要なキーワードとして、個人化があります。伝統的価値や制度の影響力がどんどん弱くなり、結婚するか否か、子供を産むか否かのような人生における様々な選択が個人の判断に委ねられる時代になっている。非常に良いことのように思えますが、その選択や判断の結果に伴うリスクも個人が負うことになる。

人間関係も個人の判断にもとづく選択の問題になり個人化しているというのが、アンソニー・ギデンズによる親密性の変容論でして、「純粋な関係」と呼ばれています。血縁や地縁、社縁など人々を拘束してきた既存の人間関係が弱まり、自己選択制の高い「純粋な関係」が増加している。ただ、その関係をうまく保つためには、社会が何も用意してくれないため、個人がずっと努力しないといけない。近年、いわゆる存在肯定や承認欲求のような言葉がよく言われるのには、そのような背景があります。

個人化・多様化の時代
──「オルタナティブな家族」から
「家族のオルタナティブ」へ

日本でも社会経済が変動するなか、単身者や夫婦のみの家族、ひとり親、事実婚や別居婚、同性パートナーシップの人たちが増えてきています。また、性愛や血縁に依らないシェアハウスやコレクティブハウスのようなあり方もある。1990年代以降は人権が尊重される社会を目指すようになり、欠損や逸脱と言われていたような家族の在り方が、多様化という大枠で捉えられ、多様な生き方を肯定しようという風潮になっていますが、これは大きな転換点です。

今ではもう一歩進んで、家族という存在そのものに異議を呈するようになっています。例えば、社会学者の牟田和恵や久保田裕之らが論じているように、従来の制度的婚姻家族にこだわらず、家族のオルタナティブについて考えるようになってきた。これまでは家族のオルタナティブの実践というと、シェアハウスが着目されていましたが、近年は介護付きシェアハウスや、シングルペアレントのシェアハウス、LGBTsフレンドリーのシェアハウス、ひきこもりの人たちのシェアハウスなどが、新しい家族に代わる親密性を包含した面白い場所として注目されてきています。価値観や生活形態の違いによる摩擦や葛藤が生じることもありますが、その中でどのように自分は考えるかを見出し、自らの立てた規範に従って動こうとする自律性が育まれていく可能性があります。

「家族のオルタナティブ」の
実践における課題

しかし、この家族のオルタナティブに向けて進めていこうとすると、日本には色々な課題があります。まず、性愛や血縁にもとづく家族というつながりが、ものすごく根強いこと。様々なところで新しいつながりの試みがなされていますが、いつも同じ人ばかりが集まる。一時的に関わるだけなら良いけれど、他人とずっと一緒に暮らすのは抵抗があるというのが大多数の感覚です。近代以降の日本では、家族がつながりの軸であり、セーフティネットになってきたことから、家族以外の他者との境界を強く意識してしまうようになっている。

また、この課題と密接に絡み合うものとして、親密圏である私的な領域・空間と、公共圏である公的な領域・空間とが、強固に区分・分断されてきたことが挙げられます。その背景には、戦後日本における個人・家族の生活空間モデルの設計の責任もあるように思います。さらに、少し大きな話になりますが、日本では市民としての自律性や主体性がずっと未成熟なままだったということがよく言われています。民主主義の未成熟もそうです。自分のことは自分でデザインするとか、皆で話し合って決めていくというような慣習が、なかなか根づかない。このような点については、おそらくアートプロジェクトが解決してくれそうな気がしています。

「つながり」の実践をめぐって
──自らの経験を軸に生み出される
ソーシャルビジネス

近年では、生活者自らが創意工夫を重ねながら起業した個人事業のソーシャルビジネスにより、ユニークなつながりが生みだされている事例が増えつつあります。もともと私がこのようなソーシャルビジネスに興味を持つようになったきっかけは、育児の孤立に関してインタビューをしている時、「相談できる場所があったり、育児のサポートをしてもらったりしても、結局、自分がしたかった仕事ができないのであれば、それが育児の孤立の本質です」という話を聞きました。そして、その後もインタビューを通じて、自分のしたい仕事をするために起業していくケースに関わるようになりました。成功事例とは言えないとしても、すごく面白くて、そのようなスペースの中では「家族」的な親密圏としての性質と、多様な人々に開かれた公共圏としての性質を併せ持つ空間やコミュニティが形成されつつあると気づきました。

様々な生活問題に直面した当事者が、自らの経験を軸として試行錯誤しながら事業を立ち上げるケースでは、当事者であるからこその共感や社会的インパクトを生み、社会変革につながっている場合もあります。例えば、今はまだ研究の途上ですが、子育て期の親が自宅で営むソーシャルビジネスに関して、5年間ほど調べてきた事例があります。子供服のお店やペットのトリミング、親子レストランを自宅でしていたり、暮らしの提案を行っていたり。もともとはソーシャルビジネスを目標に始めたのではなく、普通に自分がしたいことを事業として立ち上げただけなのですが、思いがけない展開で変わっていくケースが多いのも事実です。初めから社会や他者のためにと考えているわけではなく、自分が困惑や葛藤に直面するなかで、自分のしたいことや問題の解決をしようと一生懸命に取り組んでいるうちに、いつの間にか事業の目的を超えて多様な人が集まる場になり、ソーシャルビジネスのようなものへと変わっていくという特徴がある。NPO法人や社会福祉法人など大きな組織が公的制度に位置づけられる事業を請け負って行うケースとは、全く異なります。

公私が曖昧な空間で、
日々変化する思考と実践から
育まれる多様性

事業目的や計画もない状態で試行錯誤していると、当然ながら自分の考えが色々な経験の中で変わっていき、そこに集まる人との関わりを通じて日々変化していく。だからこそ、固定化されない多様性が生まれ、どんどん面白い空間になっていく。また、自宅や職場など公私が曖昧な空間で、仕事なのか趣味なのか、ライフワークなのかもわからない。店の経営者でありながら、いつの間にか客のように雑談をしていたり、本来は客であるはずの人が、色々とネタを持ってきてワークショップをしたり、自分がつくった面白いものを売ったり。誰が店主なのか客なのかわからない。プロなのか、素人なのかもわからない。今までは親密圏と公共圏は対立概念で考えられてきましたが、社会に開かれた場でありながら、親密圏で得られるとみなされていた関係のあり方が目指されています。

インタビューをしていると「家族のような」という言葉が頻繁に出てきます。その家族的なものとは一体何なのかについて、実践を通じて探っていきたいと思っています。家族的なものの一つにケアという機能がありますが、血縁や配偶関係による家族を形成しない人々の増加が見込まれる今後の日本社会において、ケアの他にも何が個人と社会との関係性の中で引き継がれていくべきなのかを考えていきたいです。

  • Update: 2022.03.15 Tue.
  • Editor: 西尾咲子(プログラムマネージャー)
  • Photographer: 茶本晃生

REFERENCES

講座について

LECTURE OUTLINE

梅田直美

レクチャー「“つながり”について考える」

2021年10月16日(土) 14:00–16:00

柴田ビル3階

孤立や虐待など関係性の諸問題とそれらを巡る社会的活動について研究してきた梅田直美さんから話を伺いました。前半は、古今東西の社会理論を参照し、近代社会で「つながり」がいかに変容してきたかについて。後半は、ケアなど生活者自らの経験を軸に起業したソーシャルビジネスによって、ユニークな「つながり」が生みだされている事例を紹介いただき、共有空間やアートプロジェクトとも大いに共通する試みや論点について学びました。

梅田直美
社会学/奈良県立大学准教授

1973年大阪府生まれ、同在住。孤立や虐待など関係性の諸問題とそれらを巡る社会的活動に関する研究を行う。近年は、起業者自らの経験を軸として着想されたソーシャルビジネスによって生み出されるコミュニティの性質とその意味を、「当事者性」と「自律性」に着目しながら探っている。主な著書に『OMUPブックレットNo.62 子育てと共同性-社会的事業の事例から-』(共著、大阪公立大学共同出版会)など。